11/02/2024
3年前の記事なのだが、認定NPO法人ReBitが実施した「小学校高学年における多様な性に関する授業がもたらす教育効果調査」の内容が紹介されている。
性の意識が芽生えるころに、教育を通じてLGBTQについての理解を促進することが如何に重要であるかがわかる。
さて、この調査の前提となる授業前の質問が「今までに、家や学校、テレビやマンガなどで、オカマ・ホモ・オネエなどと言ってバカにしたり笑ったりしているところを、見たり聞いたりしたことがありますか?」となっており、実生活での言葉とフィクション内での言葉を同じものとして扱っている点に違和感がある。
マンガやテレビで放送されるアニメやドラマのフィクション作品においては「オカマ・ホモ・オネエなどと言ってバカにしたり笑ったりしているところ」が作品のプロットとして作用して、最後にはそれはいけないことだよねというメッセージを発信することもありうる。
フィクションの文脈上必要な言葉として「オカマ・ホモ・オネエ」などの言葉が出てきたときに、その言葉が「差別的な意味を持った言葉」というだけで使ってはならない言葉だとして排除してしまうと、肝心なメッセージを発することができなくなる場合がある。それは本末転倒だと言える。
2001年に『週刊金曜日』に掲載された、東郷健のルポルタージュ「伝説のオカマ」のタイトルが差別かどうかをめぐって起こった論争の顛末をまとめた「『オカマ』は差別か 『週刊金曜日』の『差別表現』事件: 反差別論の再構築へ」を読んだ。「オカマ」という言葉を排除することの是非、差別の判定を当事者に限ることの是非を主として当時者たち論じたフォーラムの記録と投稿文によって構成した本である。この本を読むと「オカマ」という言葉が性的な少数者の中でも多様な受けとられ方をしていることがわかる。放送のコンテンツのコンプライアンス考査をする時のひとつの指針となるのが「最も弱い人の立場」を尊重する事なのだが、複数の人がその姿勢に異議を唱え、差別の本質性を見据えた姿勢ではないと指摘している。
例を挙げると以下のようなものである。
「常に被差別者が正しい。あるいはマイノリティ/マジョリティの対抗の中だけでとらえてしまう、そういう形式的な捉え方をすることで、逆に差別っていうものは見えなくなる、ということもありうると思う」(p.64)
「差別と排除のまなざしによって、言説の権力が多様な性現象の中から『同性愛』を切り取ったわけです。つまり、分類された時点で言葉の中に差別が刷り込まれている」(p.71)
「言葉のリアリティは個別的なもので、誰の感覚一番正しいということではない。だから、どれが差別語でどれならクリーンなんてことは本当のところないんです。痛みを感じる人たちの割合が違うということは言えるかもしれないけど、で、それなら、痛みを感じる人が少ない言葉ならまったく問題なしとするなら、『一番傷つきやすい人たちを基準に』とする人たちの考え方には反してしまうことになる。『オカマ』で傷つく人が『同性愛者』で傷つく人より傷口が深いということは言えませんから、つまり、差別的に用いられてきたからといってその言葉を消すというのでは、自分たちを指し示すこと自体を否定することにもなり兼ねない」(p.72)
「差別的に用いられてきたからと言ってその言葉を消すというものでは、自分たちを指し示すこと自体を否定することにもなり兼ねない」(p72)
「メディアや一般の方が、『オカマ』という言葉が絶対的な差別語であって、メディアがこの言葉を用いるとどんな文脈であっても、同性愛者の人たちみんなが抗議をするものだと思われると困る」(p.75)
「反差別運動全体の今の中心的な考え方というのは、『差別の問題をマイノリティがマジョリティに対して説明する責任なんかはない。マジョリティがマイノリティの立場に立って自分の抑圧性というものを深く反省しないといけないんだ』というものなのですね。(中略)この論理を徹底してゆくと、マジョリティはマイノリティから講義を受けた場合、『弱者の意見を聞かないといけない』ということだけが、義務として要請されますから、適切な異議申し立てを逸脱したと思える講義に足しても反論することができなくなってしまいます」(p.91)
「差別の問題で重要なのは、ある絶対的な弱者っていうものがいて、その言うことをみんなが聞かないといけないということじゃなくて、それが本当に差別に当たるのかどうかについて開かれた議論を常に行って、共通了解を作り出す努力を続けることができることなんです」(p.93)
「違和感を覚えたのは、例えば、『一番傷つきやすい人を基準に』という考え方です。もしそうするのならば、それがたとえ一人であっても、その人が抗議をした場合、その言葉を使っちゃいけないということになる。それは結局、表現の内実を問わないことになり、議論の可能性というものを奪ってしまう」(p.127)
「せっかく『楽しく使えるステキな言葉』に変わりつつある言葉(*「オカマ」のこと)が、一般のメディアでいわゆる『差別用語』として、試用そのものが問題視されたり自粛されたりすることは、当事者(一部の、ですけど)にとってステキな言葉に生まれ変わりかけているものを、再び『見るのも聞くのもイヤな言葉』へと逆戻りさせることではないかという懸念があります」(p.134)
「差別語があったら、それを隠さなければいけないという考え方には反対です。同性愛者というカテゴリーが社会的にあって、それが少なからず偏見を受けているとしたら、どれだけ差別語を無くしたって、僕らを示す言葉は生まれてきます。必要なんですもん。そんな言葉のモグラたたきをしていたって、埒があきません。差別語を堂々と使って、それに反応させて、反応した人間に正しいイメージをインストールする。(中略)クィアだって、日本語でいったら『変態』。だけどこれだって、否定的なカテゴライズの言葉を、逆手にとっていい意味にしてしまった国交の例ではないですか?これを『オカマ』って言葉でもやればいいんですよ。そうすれば、誰も差別語なんていわなくなりませんか?」(p.137)
「何が差別語かの線引きは難しい。『オカマ』だけでなく、『同性愛者』『ゲイ』といった言葉を差別語だと感じ、不快に思う当事者もいる。実際、それらはかつて、そして現在でも差別的に語られることがある。反対に『オカマ』という言葉に愛着を持つものも少なからずいる。問題は、それらの言葉が用いられる文脈であり、そこにしかるべき配慮がなされているかどうかだ」(p.194)
「この言葉を聞くだけで苦しみを感じる人もいれば、誇りをもって受け止めている人もいる。まさに多様なのだ。ではメディアはどうすればよいのか。使われている記事の文脈が佐部ウを助長するものか否かで判断する以外にない。メディアが非難を受けるかどうかは、この点にかかっている」(p.195)
当事者たちが語るこれらの言葉からわかるのは、「オカマ」が性的な少数者を差別した言葉だと規定して、その使用を禁ずることは、少数者からアイデンティティを表現する言葉を奪うことになるということだ。「オカマ」という言葉で自身のアイデンティティを表明する人たちがおり、その人たちから「オカマ」という言葉を奪ってはいけないことだ。
メディアには弱者の立場を守る役割があるが、その論理だけでは問題の本質を解決することはできない。メディアから「オカマ」という言葉を締め出すことが、差別の解消につながるわけではなく、むしろそれは逆に差別問題を不可視化し、議論を避ける態度につながるということを理解しなければならない。本文中にあるように、「差別的現状が解消されない中での単なる言い換えは、差別の実体を隠蔽する」(p.151)ことになるということをメディアは自覚していなければならない。
小学生の6割が日常生活でLGBTQへの差別的言動を見聞きLGBTQの68%が学齢期にいじめを経験する。また、トランスジェンダー58%が自殺念慮を経験し、そのピークは小学校高学年からの二次性徴期であるという。今...