中國紀行ckrm

中國紀行ckrm 「日中交流文化史観で、古代人類の真理に迫る」という標語の元に日本と中国を旅しながら、そこに残された伝説や伝統の根幹と共に古代の人流を考える、地域伝承を尊重する編集方針の雑誌です。

隣国の「ありのままの姿」を見つめ、多くの人に中華浪漫を提供したい。その一心で私たちは「中國紀行CKRM」を作り続けております。現地取材を行い、歴史を紐解きながら現在を伝える編集ポリシー。ネガティブな情報や偏見報道にうんざりしてる方、是非一度「中國紀行CKRM」をお読みください。中国はやっぱり、面白いですよ。

中國紀行CKRM Vol.37「楚の地に眠る宝 なぜ渡り鳥に、日本の名がつけられたのか?」が完成いたしました ❗️発売は明日、10月23日(水)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊〜...
22/10/2024

中國紀行CKRM Vol.37「楚の地に眠る宝 なぜ渡り鳥に、日本の名がつけられたのか?」が完成いたしました ❗️
発売は明日、10月23日(水)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊
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トキの学名がニッポニア・ニッポンなので、日本の国鳥と勘違いしている人もいますが、日本の国鳥はキジであり、キジは渡り鳥ではありません。『日本書紀』巻第七で、日本武尊は初めに九州南部に行き、熊襲を平定する過程で首領に名を譲られ、次に東北に向かい、蝦夷の首領を捕虜にして東夷を平定します。倭國に帰る途中、伊勢國の能褒野で病に倒れ、白鳥になって飛び立ったとされますが、これは白いサギともいわれ、どちらも渡り鳥です。
長江下流域は揚子江と呼ばれ、この地域の古代遺跡からは、沢山の鳥の紋様や造形物が発見されているのですが、長江上流域には前号で紹介した「蜀」の地があり、下流域は海に通じています。中流域の湖北省と湖南省が隣り合う地域で、「楚」の国は形を成していましたが、楚の成立の起源は蜀同様にわかっていません。つまりこれらの国の始まりは、いわゆる中原文化と異なる起源をもつ文化が、途中で中原文化と融合したということでしょう。
中国では春秋と呼ばれる時代において、長江下流域には呉服や呉音として日本語に残され、聞き馴染みのある「呉」の国や、越前・越中・越後のように、地名として日本語に残された「越」の国が成立していました。呉はその成立が周王朝の太子であった太伯であるため、比較的年代測定がしやすい国。越の王族の祖先は中華文化圏の祖と言われる夏王朝の禹とされ、楚の王族の祖先はそれよりも古い、三皇五帝の顓頊とされています。より古い時代の先人たちが、中原文化と融合していく過程が垣間見えるようです。長江下流域から海に出て南下すると、黒潮に乗って琉球弧沿いに日本列島へと辿り着きます。渡り鳥たちは、途中の島々で羽を休めて疲れを癒すのでしょう。
渡り鳥の道には、不思議と人流による文化の融合が散見されています。文化というのは、異なる価値観が合わさることで発生し、その地域特有のものとなっていくようです。それは現代、世界中で使われている共通のスマホであっても、使われているアプリが国ごとに違うことに似ているようですが、磨かれ続けた本質は変わりません。古代の世界で、多くの地域に共通する紋様や造形物がある理由。それは異なる価値観の伝播を想像し、文化の本質が磨かれた理由を考えることで、理解できるようになるのでしょう。「楚人」と「日本人」の知られざる共通点に、中國紀行CKRM的視点で迫っていきます。

トキの学名がニッポニア・ニッポンなので、日本の国鳥と勘違いしている人もいるが、日本の国鳥はキジであり、キジは渡り鳥ではない。『日本書紀』巻第七で日本武尊は初めに九州南部に行き、熊襲を平定する過程で首領...

中國紀行CKRM Vol.36「古蜀國&高天原」が完成いたしました ❗️発売は明日、7月23日(火)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜...
22/07/2024

中國紀行CKRM Vol.36「古蜀國&高天原」が完成いたしました ❗️
発売は明日、7月23日(火)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊

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コロナ禍になってからというもの、中国への渡航が困難になったのを機会として、弊誌では日本国内に残されている大昔からの中国大陸との関係を、様々な特集テーマで紹介してきました。琉球特集から始まり、アイヌ特集、江戸特集と進めていきながら、取材先でお聞きした事や、多くの研究者のご意見を参考にさせていただき進め、34号では日本の歴史の始まりとされる、天孫降臨のテーマにいきつきました。
続く35号の媽祖特集では、機械文明が発達する前の航海を、当時の信仰を含め考え旅したことで、この先の中国各地の方々との交流の方向や、日本の方々にお伝えすべきだと感じたテーマがいくつか見えてきました。その一つが今回の特集テーマ、日本の神々が暮らしていたとされる「高天原(たかまがはら)」が、現在の中国四川省にあった「古蜀國(こしょくこく)」なのではないかという可能性です。かつての中国大陸と日本列島の間には、現代の貿易商のように国々の文化を繋ぐ存在がいた可能性があります。そのような方々がいたからこそ、これほど離れた地域の中にも共通の文化が生まれ、共通の大切な事柄があるのかもしれません。
日本最古の国史である『日本書紀』の中には、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と祖父である高皇産靈尊(たかみむすひのみこと)の共通の尊称である「尊」について説明する箇所がありますが、初代である神武天皇以降の天皇の系譜を見ると、御名の最後に尊がついている方々にはある共通点がありました。それは、「異なる文化圏の人々を自国の文化と繋げたこと」だったのです。四川省の三星堆遺跡から出土した「尊の中身」や、組み立てられた「巨大な青銅器」は、日本の神代の記録とも合致しているかのようです。
中原文化の発祥とされる夏王朝の禹王以前に、すでに蜀はありました。金沙遺跡から出土した「玉器と金器の技術力の高さ」と、どこかへ移動した可能性がある「青銅の技術」。中国最古の地方誌の一つである『華陽國志』の中に記された「會昌神」と、日本の「岐神」の類似性。『山海経』の中にある「扶桑」の記述と、「養蚕」の発祥地である「蜀」の、初めての王である「蚕叢(さんそう)」。日本はかつて、世界有数の養蚕国家でありました。これら共通点の中にある古代日中交流文化の可能性に、中國紀行CKRM的視点で迫ります。

コロナ禍になってからというもの、中国への渡航が困難になったのを機会として、弊誌では日本国内に残されている大昔からの中国大陸との関係を、様々な特集テーマで紹介してきました。琉球特集から始まり、アイヌ特集...

中國紀行CKRM Vol.35「天妃媽祖と日本列島」が完成いたしました❗️発売は明日、4月23日(火)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊www.amazon.co.jp/dp/40...
22/04/2024

中國紀行CKRM Vol.35「天妃媽祖と日本列島」が完成いたしました❗️

発売は明日、4月23日(火)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊

www.amazon.co.jp/dp/4073477617

江戸時代の文化を色濃く残している地域では、かつての教育の中心的思想と融合していた儒学などの、古代中国から受け継がれてきた知識のかけらと度々遭遇します。江戸時代といえば、いわゆる鎖国政策のイメージが強いため、外国と交流していなかった時代と思われる人もいますが、外国とのやり取りを全て幕府が管理していただけで、交流をしていなかったわけではありません。
母なる海という言葉は、いつの時代から使われていたのでしょう。当たり前の話ではありますが、今でも普通に使われている言葉の一つ一つには全て、始まりがあります。飛行機の無い時代、外国から日本に来た人たちは全て船でやってきました。大海を渡るために航海の知識は必要ですが、天候を操作することはできませんので、時には想像もつかない過酷な状況が現れ、命を落とすことも珍しくありませんでした。だからこそ船乗りには、いつの時代も心の支えが必要です。江戸時代、中国から日本にやってきた多くの船には、媽祖という女神の像が祀られていたそうです。
沖縄県はかつて琉球國と呼ばれ、琉球國が出来る前の時代には三つの国があったそうです。その三つの国の真ん中にあった中山國に、中国明王朝の洪武帝によって使わされたと伝えられる久米三十六姓が、天妃宮という海の女神の社を創建しました。中山國が三つの国を一つに統べたことで琉球國が成立しますが、琉球國成立後のある時代、久米島には天后宮という社が創建されます。ここで祀られたのは、同じ出自の海の女神でした。この女神はかつて、中国の福建省湄州島出身の林黙という女性だったと記録されています。
媽祖という女神は、中国北宋時代の福建省にいた林黙という女性が、海上で災難に見舞われた人々を救い続けたのちに昇天し神となった存在なので、媽祖信仰が残る地域には、中国東南沿岸部との海上交流が頻繁に行われていたことが予想できます。その証明に繋げられるのが、今でも媽祖信仰の形跡が残る地域で受け継がれてきた伝承と、そこにいたかつての人たちの生活習慣なのでしょう。
天妃・天后・媽祖は同じ存在を指している言葉ですが、なぜ変わるのでしょうか。僕らは母なる海という言葉に、なぜ違和感を感じないのでしょうか。不思議な事に媽祖信仰は、日本海側の地域にはほとんど見当たらず、東シナ海と太平洋側の地域に色濃く残されています。
現代日本の中で今も守り受け継がれている媽祖信仰を通して、在りし日の中国東南沿岸部と日本各地の交流に、中國紀行CKRM的視点で迫ります。

江戸時代の文化を色濃く残している地域では、かつての教育の中心的思想と融合していた儒学などの、古代中国から受け継がれてきた知識のかけらと度々遭遇する。 江戸時代といえば、いわゆる鎖国政策のイメージが強い.....

中國紀行CKRM Vol.34「天孫降臨と楚國」が完成いたしました❗️発売は明日、1月24日(水)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊www.amazon.co.jp/dp/4073...
23/01/2024

中國紀行CKRM Vol.34「天孫降臨と楚國」が完成いたしました❗️

発売は明日、1月24日(水)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊

www.amazon.co.jp/dp/4073468626

自分を刺している相手だけでなく、その人の家族や子孫、その周りの人たちの未来の幸福を祈って死んで いくことが出来る人など、いるのでしょうか。もしそのような人が多くいたなら、恨みの連鎖で片方が消え るまで続く戦いなどは、起きないでしょう。全ての国家の主導者がそうであったなら、国民を巻き込む戦争 にはならず、主導者同士で決着をつけられるはず。とはいえ残念ながら現代において、そのような現実は訪 れていないようです。『日本書紀』には、かつての日本列島に、そのような主導者がいたことが記録されて います。その名は、熊襲の魁帥(たける)。又の名を川上梟帥(かわかみのたける)。熊襲の国である襲國 (そのくに)があったという九州南部は、日本の歴史の始まりである「天孫降臨」の地だとも記録されていま す。熊襲といえば、度々敵役として語られることが多い人たち。それなのになぜ、熊襲の人たちの国があっ たと伝わる地域に、日本の皇族の祖先が天降られたのでしょう。
日本童男(やまとおぐな)によって暗殺された川上梟帥は死の間際、日本童男に「日本武」(やまとたけ る)という尊号を授けています。なぜこのような行動をしたのか理由がわかりませんでしたが、今号の特集 を纏め終えた今では、理解できた気がしています。おそらく川上梟帥という主導者は、大いなる徳で恨みの 連鎖を断ち切ることが出来る、稀有な主導者だったはず。死に際を悟り、後世の子孫に平和な未来を与えた かったからこそ、恨みの連鎖を断ち切るために、大いなる徳で敵を包みたかったはずです。徳による恨みの 連鎖を断ち切る方法は、古代中国で生まれました。これこそが、古代中国から受け継がれている礼楽文化圏 の中で、最も美しい思想にも感じます。人の性質というのは、時代によって大きく変わるものではありませ ん。かつての生活や世界情勢を考えながら、天孫降臨から神武天皇の時代までの日本を、中國紀行CKRM 的視点でお伝えいたします。

日本の歴史の始まりの地はどこかといえば、神話で語られる天孫降臨の地、高千穂と答えて良いだろう。とはいえ、この高千穂がどこかといえば、断定することが難しい。何故なら、高千穂という地名を残し、現代まで天孫...

住所

Minato-ku, Tokyo

電話番号

+81362285659

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