22/10/2024
中國紀行CKRM Vol.37「楚の地に眠る宝 なぜ渡り鳥に、日本の名がつけられたのか?」が完成いたしました ❗️
発売は明日、10月23日(水)です。ご購入は全国書店か、下記Amazonなどのネットショップから、よろしくお願いいたします😊
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トキの学名がニッポニア・ニッポンなので、日本の国鳥と勘違いしている人もいますが、日本の国鳥はキジであり、キジは渡り鳥ではありません。『日本書紀』巻第七で、日本武尊は初めに九州南部に行き、熊襲を平定する過程で首領に名を譲られ、次に東北に向かい、蝦夷の首領を捕虜にして東夷を平定します。倭國に帰る途中、伊勢國の能褒野で病に倒れ、白鳥になって飛び立ったとされますが、これは白いサギともいわれ、どちらも渡り鳥です。
長江下流域は揚子江と呼ばれ、この地域の古代遺跡からは、沢山の鳥の紋様や造形物が発見されているのですが、長江上流域には前号で紹介した「蜀」の地があり、下流域は海に通じています。中流域の湖北省と湖南省が隣り合う地域で、「楚」の国は形を成していましたが、楚の成立の起源は蜀同様にわかっていません。つまりこれらの国の始まりは、いわゆる中原文化と異なる起源をもつ文化が、途中で中原文化と融合したということでしょう。
中国では春秋と呼ばれる時代において、長江下流域には呉服や呉音として日本語に残され、聞き馴染みのある「呉」の国や、越前・越中・越後のように、地名として日本語に残された「越」の国が成立していました。呉はその成立が周王朝の太子であった太伯であるため、比較的年代測定がしやすい国。越の王族の祖先は中華文化圏の祖と言われる夏王朝の禹とされ、楚の王族の祖先はそれよりも古い、三皇五帝の顓頊とされています。より古い時代の先人たちが、中原文化と融合していく過程が垣間見えるようです。長江下流域から海に出て南下すると、黒潮に乗って琉球弧沿いに日本列島へと辿り着きます。渡り鳥たちは、途中の島々で羽を休めて疲れを癒すのでしょう。
渡り鳥の道には、不思議と人流による文化の融合が散見されています。文化というのは、異なる価値観が合わさることで発生し、その地域特有のものとなっていくようです。それは現代、世界中で使われている共通のスマホであっても、使われているアプリが国ごとに違うことに似ているようですが、磨かれ続けた本質は変わりません。古代の世界で、多くの地域に共通する紋様や造形物がある理由。それは異なる価値観の伝播を想像し、文化の本質が磨かれた理由を考えることで、理解できるようになるのでしょう。「楚人」と「日本人」の知られざる共通点に、中國紀行CKRM的視点で迫っていきます。
トキの学名がニッポニア・ニッポンなので、日本の国鳥と勘違いしている人もいるが、日本の国鳥はキジであり、キジは渡り鳥ではない。『日本書紀』巻第七で日本武尊は初めに九州南部に行き、熊襲を平定する過程で首領...