郡山音楽堂

郡山音楽堂 音楽堂創設運動を単身で行っています、

08/08/2024

本文では、“筆を加え„ています。本書には、優れた文章で構成されていて、
試行錯誤しながら行っています。
『仙台戊辰史』藤原相之助(ふじわらあいのすけ)著は、本書と似ているところがあるように思えます。
序文を記した大槻文彦(おおつきふみひこ)氏には、最初は戸惑ったが、何とか形になったと思っている。

08/08/2024

第 四 章  奥羽鎮撫使と仙台藩
奥羽鎮撫使の部署〇鎮撫使の発着〇仙台藩主の謁見〇会津討入の命令
〇鎮撫使の仙台着〇三(み)好監物(よしけんもつ)〇仙台藩の弭兵論(びへいろん)〇会津藩の戦備
〈頭注〉此変更其他の事情は九章及び巻末(かんまつ)附録の東北人謬見考(びゅうけんこう)を看(み)よ
二月上旬朝廷官軍東征の部署を定めるに方たり奥羽方面にも亦鎮撫使を派遣しようとし澤(さわ)三位(さんみ)(注:為(ため)
量(かず))総督とし醍醐(だいご)少将(しょうしょう)(注:忠(ただ)
敬(ゆき))副総督とし黒田(くろだ)了(りょう)介(すけ)・品川(しながわ)弥(や)二郎(じろう)を参謀とする二月二十六日に至り
之を改め九条(くじょう)公(こう)(注:道(みち)
孝(たか))総督・澤三位を副総督とし醍醐少将を上参謀(かみさんぼう)とし薩藩大(おお)山(やま)格(かく)之(の)助(すけ)・長州藩世(せ)良(ら)修(しゅう)蔵(ぞう)を以て黒田・品川に代え下(した)参謀(さんぼう)とし(注:大山は二月三十日
世良は三月朔(ついたち))薩長及び筑前・仙台の兵に護衛を
命ずる⦅注:我長州藩兵一中隊約百人薩藩一小隊約百人隊長大野五左衛門・筑前一中隊約百人隊長貝原市太夫・仙台一中隊約百人隊長大越文五郎であったと云う我兵は第四大隊二番中隊で此兵は曩に命ぜられ
兵庫(ひょうご)を警衛するが二月二十九日大阪(おおさか)帰陣(きじん)を命ぜられ三月二日鎮撫使護衛の命を受け四日大阪に着す同日桂(かつら)太郎(たろう)司令を命ぜられ粟屋(あわや)市太郎・飯田千蔵小隊長を命ぜられる⦆
〈頭注〉錦旗のこと醍醐手記に見る京都で薩摩・筑前・仙台の隊長に「菊御紋(ごもん)の御旗(みはた)」を授けられたこと仙台兵先陣・薩摩後陣(こうじん)で薩摩・筑前・仙台三藩兵随従して京都を発し伏見で一泊
鎮撫使が京都発程(はってい)初め三月朔を以て期とするも二月二十九日に至り一日を延べて三月二日とし其日錦旗を翻(ひるがえ)して途に上(のぼ)り伏見で一泊して三日大阪に着す十日三卿両参謀及び三卿の家士(かし)従卒等紀州汽船に薩長兵
(脚注)三日大阪に着すこと仙台藩記で見る又大阪で長州兵軍令諸法度(しょはっと)並び隊旗(ならびたいき)を授けられ一行に加わったこと長州藩文書(もんじょ)に見える
は芸州汽船万(まん)年(ねん)丸(まる)に筑前兵・仙台兵は各(おのおの)其藩船に乗じ(注:仙台の船は宮城丸・筑前の船名(せんめい)未詳(みしょう)当時各藩の船は概(おおむ)ね皆朝命により朝廷に用(よう)に供(きょう)するという他の場合皆然りと知るべし)十一日大阪より回航(かいこう)し十八日奥州寒(さ)風(ぶ)澤(さわ)に着す翌十九日風浪(ふうろう)悪くして松島(まつしま)に舟行(しゅうこう)すると得ず乃ち東名浜に上陸する夜半三好監物来り謁(えっ)する此日風波を避け東名浜に入る旧幕府帆船(はんせん)一隻(いっせき)を捕獲する×二十日総督一行舟行(しゅうこう)して松島に
至り三卿は観(かん)瀾(らん)亭(てい)に駐二十二日仙台藩主伊逹慶邦重臣但木土佐等を随えて来り謁する既にして総督慶邦に急速会津討入を命ずる
×(脚注)東名浜・一(いち)名(めい)潜(かつぎ)ヶ(が)浦(うら)と称する
乗り賃は処分し船は仙台藩をして管(つかさど)らせる此事も東北人謬見考を見よ
其書の一に曰く
早々人数差出会津へ可討入(うちいるべく)事
策略等之儀参謀可申(もうすべく)談候事
其書の二に曰く
会津先陣被仰付候(おおせつけられそうろう)就いては彼の国情探索等精々行き届き居り可申に付巨細(こさい)御本陣へ
可申出(もうしいずべく)事
二十二日総督一行塩釜(しおがま)に移る二十三日塩釜を発し仙台に入る仙台藩設備する所の藩学(はんがく)養(よう)賢堂(けんどう)に宿る仮に総督本営とする二十四日藩主慶邦更に来り謁する総督益々其出兵を促す是より先キ仙台藩重臣但木(ただき)土佐(とさ)等各臘(かくろう)以来京都に在り本年(ことし)正月朝廷内(ない)諭(ゆ)して藩主をして藩の力相応の兵を率い登京(ときょう)させる×藩主未だ動かず姑(しばら)く三好(みよし)監物(けんもつ)をして兵若干を率いて西へ上らせる二月二日入京し但木は其十六日京を発して帰藩する
(×脚注)此事は他の諸藩も同様である至急を要するを以て藩主事故あるときは、或は世子、或は老臣の代表を許した
⦅原注:各年(かくねん)十月将軍大政を奉還し朝廷万石以上の諸侯に上京を命じるとき仙台では藩主自己(じこ)は動かず但木土佐・大(おお)童(わらわ)信(しん)太(だ)夫(ゆう)をして至急上京させた○三好監物は隊長を命ぜられ其兵を率い紀州の汽船を借り正月潜(かつぎ)ヶ(が)浦(うら)を発して海路大阪に向かうも伊豆(いず)下田(しもだ)で幕軍伏見(ふしみ)の敗報を聞き船長大阪廻(かい)航(こう)を肯(がえ)んぜず因って鳥羽(とば)より上陸し上京する⦆十七日朝廷伊達氏に御旗二(に)旒(りゅう)を賜う但木等の情(じょう)願(がん)あったに因るという時に奥羽
鎮撫使将に発程しようとする監物は在京仙台兵を其護衛兵の中に加えることを請い聴かず(原注:御旗及び錦(にしき)製官軍肩章(けんしょう)とも鎮撫使仙台を去り南部に向かった際仙台藩之を返納する)既にして監物は大越文
(脚注)此処御旗のこと仙台藩記に依る此事に付いても東北人謬見考を見よ
五郎をして代わりに兵を率い鎮撫使に随わせ鎮撫使に先だち星馳(せいち)して仙台に帰る(原注:二月二十九日発途
余談 星馳  早く行くという意
三月九日帰着)仙台に在っては監物西へ上るという後に於て応援襲撃の朝命到る会々執政坂(さか)英力(えいりき)等江戸より帰り主張して曰く薩長二藩天子の幼冲(ようちゅう)を利し窃(ひそ)かに徳川の政権を奪おうと加之(しかのみならず)方今(ほうこん)兵を構えるは外国の覬覦(きゆ)を如何せん朝命ありと雖も遽(にわ)かに干戈(かんか)を動かす可からず且つ会津既に恭順謹慎を表す誼(よしみ)宜しく朝廷に奏し
為に王師の東下を止めるべきであると有力の藩士及び養(よう)賢(けん)堂(どう)学(がっ)官(かん)等亦盛んに此説を唱え老臣但木土佐主として之に和し藩議(はんぎ)愈々(いよいよ)動く此(ここ)に於て参政大(おお)條(えだ)孫(まご)三(さぶ)郎(ろう)をして弭(び)兵(へい)助け幕の趣旨に外ならないという建白書を携え海路上京させ又別に使(つかい)を米沢・秋田・盛岡に発し其意を致し賛同を促す×孫三郎・監物の首途(しゅと)前に京師に着するも上国の形勢は斯(か)かる建白を容れるべき時ではない孫三郎は為に建白を中止し監物の帰藩に
託し藩主の指示を請わせた※藩主は之を憤(いきどお)り更に一門である伊(だ)逹(て)将(しょう)監(げん)をして同一の建白を齎し西へ上らせ将監駿府(すんぷ)に於て書を東征大総督府に上り斥(しりぞ)けられる是より先伏見戦後会津藩既に朝敵に擬(ぎ)せられる
〈×頭注〉所謂(いわゆる)討幕五不可の建白である二二五頁を見よ
二月十二日藩主松(まつ)平(だいら)容(かた)保(もり)江戸より歎願書を朝廷に出し家臣等亦之に副(そ)えるという一書を以て容保の書(しょ)旨(し)藩地に退居し恭順謹慎朝命を待つと云うに在りと雖も之を家臣等の書旨を湊合(そうごう)して考えると将監未だ帰ら
ないで鎮撫使は既に仙台に着し出兵を督促甚だ急なり監物は鎮(ちん)撫(ぶ)使(し)掛(がかり)参政を命ぜられ大いに尽力し奉(ほう)命論(めいろん)を以て奔走しているも未だ藩論を翻(ひるがえ)すこと能はず仙台藩の態度は陽に言う所と陰(いん)に為(な)す所と多くは
〈※頭注〉大條(おおえた)は宇和島伊達家より仙台藩主の養嗣子(よししし)を迎える用務を兼ねるを以て三好(みよし)より後れて帰藩するという
相矛盾する引責(いんせき)服罪(ふくざい)の誠意猶(なお)之を認(みと)め難(がた)きだけでなく反って藩を挙げて飽くまで為す所あるだろうと欲するという意文字の間に隠見(いんけん)する(原注:家臣の書中に「不虞(ふぐ)の汚名(おめい)を蒙り候段臣下の至情(しじょう)日夜慟哭(どうこく)君
冤(ぬれぎぬ)を雪(そそ)がなかったら死すとも不止(やまず)と闔(こう)藩(はん)決心仕(し)居(おり)候頑固の風習何とも撫(ぶ)諭(ゆ)の道無之(これなく)等の話あり)加之(しかのみならず)兵を練(ね)り軍費を調べ動静(どうせい)常に異なり其十八日容保等江戸を発し会津に退き桑名及び旧幕の脱走兵と相
和して益々戦備を張る故を以て鎮撫使が仙台に達するか固より既に撫(ぶ)諭(ゆ)の余地(よち)なかったという而も執政坂英力等の弭兵(びへい)説は其勢遂に制す可からずに至る

第 五 章 藩内春期(しゅんき)の雑件(ざっけん)
干城隊への条書○第一丁(だいいちてい)卯(ぼう)艦の廻航○伊藤(いとう)俊(しゅん)輔(すけ)の東上並び英(えい)提督(ていとく)への贈品
余談 伊藤俊輔  伊(い)藤(とう)博(ひろ)文(ぶみ)の旧名
○藩内防備令○除服忌令(ぶっきれいをのぞく)○因州への使者○第六大隊の謁見○花(か)山(ざん)院(いん)家(いえ)理(のり)卿
党(とう)与(よ)の抑留(よくりゅう)○上下関(しものせき)船舶(せんぱく)通行の検査○各藩の来往使(つかい)○藩内士民の献金
○三(み)田尻(たじり)語学校設立並び米人雇聘(べいじんこへい)○経費節減令○鞠府(まりふ)丸の返還○公の萩(はぎ)行き
○帰陣兵の謁見○松下塾への賜る費(あたい)○毛利平六郎の英国(えいこく)遊学(ゆうがく)○毛利宗五郎の家督(かとく)
余談 毛利平六郎 元(もと)功(いさ)・毛利宗五郎・元(もと)敬(あき)の幼名
○堅(かた)田(だ)大和の凱旋○吉川氏の家格(かかく)昇進(しょうしん)○毛(もう)利(り)讃岐(さぬき)守(のかみ)の来山(らいざん)○宗(そう) 対馬(つしま)守(のかみ)の来訪
○公の三田尻行き○毛利宗五郎並び吉川芳之(きっかわよしの)助(すけ)の来山○鷹司(たかつかさ)・壬生(みぶ)二(に)公子(こうこ)の山口留学
此時期間に於ける藩内の雑件を見ると正月元日公父子(ふし)山口に在り世子(せいし)公館(やかた)に上り公と便(べん)殿(でん)で対食(たいしょく)し終わって対面室に於て老臣及び吏員(りいん)を引見(いんけん)して年賀を受け午後便殿に於て試筆(しひつ)の式あり
二日大書院(おおしょいん)に於て諸臣及び有(ある)格(かく)の農(のう)商(しょう)に謁を賜う三日公駕を命じ、霊社(れいしゃ)を遥拝(ようはい)し五社(ごしゃ)を巡拝(じゅんぱい)する同日京都に於て公の命に因り酒二樽・鯣(するめ)十連を三条卿に酒一樽・鯣五連ずつを三條(さんじょう)西(にし)
四条(しじょう)・壬生(みぶ)・東久世(ひがしくぜ)四(よん)卿(きょう)に贈る入洛(じゅらく)を慶するという六日毛利(もうり)筑前(ちくぜん)守(のかみ)に前の条書を干城隊総督に授ける
余談 毛利筑前守  毛利敬親
(条々)
今度大組(おおぐみ)并に遠近附(えんきんづき)之内少(しょう)壮(そう)之者諸役付を除く四百人余精選(せいせん)編製(へんせい)被仰付候処(おおせつけられそうろうところ)於于
下申合(もうしあせした)一統出(で)米(まい)を以て常(つね)屯集願出被差免(さしまぬかれ)入隊中総督之管轄(かんかつ)に被仰付候尤も総督病気
其外差湊(さしつどう)之節は副総督へ総督之御用取計(とりはからい)被仰付候条諸役付を初隊の中一統諸事
無違(ちがいなく)背き可被(なさるべく)請う其差図候事
但し根組之儀は是迄(これまで)之通被差置(さしおかれ)候事
一干城隊之儀は去々(きょきょ)丑(うし)五月(うしご)御直書に付並び条々を以て被仰聞候(おおせきけられそうろう)通り階級持方(まさ)に不拘弥(いよいよ)以て親(しん)睦(ぼく)一和不失
士道切磋(せっさ)勉励諸士は勿論諸兵之亀鑑(きかん)と可相成(あいなさるべく)様可為(なるべく)肝要候尤も質朴(しつぼく)を主として驕奢(きょうしゃ)之風に不陥(おちいるべからず)様
可相心得候事(あいこころえべくそうろうこと)
但し質朴(しつぼく)を主として驕奢(きょうしゃ)之風に不陥(おちいらず)様可相心得候事(あいこころうべくそうろこと)
一文武修業の方之儀は是迄度々御改正被仰出候(おおせいでられそうろう)趣も有之猶亦当今兵学等別れて日新之形勢に付此往追々(おいおい)被仰出儀も
可有之(これあるべく)御趣意筋を奉じ一個之働き而己(のみ)不安士官之本職屹度(きっと)可被尽(つくされるべく)其材(ざい)識(しき)に依り修業の方・方向相定め候儀可為
肝要候事
付け隊伍編製(たいごへんせい)之上は心懸け次第諸塾へ入り込みも可被仰付(おおせつけられるべく)尤も出軍之節は編隊勿論之事
一賞罰黜陟(しょうばつちっちょく)等一切総督御任せ之筋を以て当役へ申出之上厳正実地之覚悟無油断(ゆだんなく)諸役配り其外不依何事(なにごと)偏頗(へんぱ)無之
精密公平之詮議可為肝要候事
但し陣営の中禁足以下の罰は総督へ御任せ之事
一軍艦之儀は御目付之心得を以て実地平常共(とも)隊中諸事検察被仰付候事(おおせつけられそうろうこと)
一参謀書記之儀は総督を補佐し隊中諸事無抜目(ぬけめなく)可被令心配候事
一隊長之儀は実地平常とも隊中諸差引被仰付尤も重大之事件は総督へ申達(しんたつ)可被令処置候事
一半隊長押伍(おうご)之儀は其隊長申合せ各隊長の中可被令心配候事
一右之外諸役付之儀は銘々引受之役筋(やくすじ)堅固に可被相勤め尤も重大之事件は総督へ申達可被令
処置候事
一隊中之面々諸長官へ対し不作法(ぶさほう)無之様礼儀を尽くし聊か失礼之振舞有之間敷(これありまじく)尤も隊中之者隊長へ対し実地平常とも
其差図不可背段勿論候事
一実地は勿論平常である共・引受之物(もの)の具(ぐ)等閑(しず)かに取扱候(とりあつかいそうろう)節は不覚之沙汰に被仰付
候事
右条々宜しく相守り若し於て違犯(いはん)は総督より申出之前を以て品に寄り相当之科(か)条(じょう)に可被処依仰執達如件(しょせらるべくおおせによってしったつくだんのごとし)
余談 上記“古文書の世界„を引用する
正 月                                  当  役  中
十日英国軍艦馬関(ばかん)に至り各年英国商人に委嘱(いしょく)する所の砲艦一隻竣功(しゅんこう)来崎(らいさき)しているを以て速やかに廻航委員を派することを求め久保松太郎之を政府に報ずる尋いで委員を派遣する(原注:第一丁(だいいちてい)卯(ぼう)丸(まる)
余談 馬関  下関の古称・来崎  長崎へ来ること
是である)此日伊(い)藤(とう)俊(しゅん)輔(すけ)英国艦に塔(とう)じ東上(とうじょう)する公俊輔に託し書を英国(えいこく)水師(すいし)提督(ていとく)に贈り添えるに物を以てする
余談 伊藤俊輔  伊藤博文の旧名
(英国提督に贈る書翰)
一筆啓(けい)達(たつ)候春夏(しゅんか)之砌御壮健(そうけん)御起臥可有之(これあるべく)と致し欽慕(きんぼ)候追々家来之者共長崎其外で致し御面話(めんわ)候由御懇(こん)切(せつ)之(の)程(ほど)承及(うけたまわり)致し感喜候(かんきそうろう)
此の後自然領海御通航之序も御座候得共者御立寄り被下(くだされ)御高話等承り度兼々企望(かねがねきぼう)罷在候随而(したがって)此品軽(けい)微(び)之至り候得共幸便(こうびん)に任せ
致し進上(しんじょう)候間御笑(しょう)留(りゅう)可被下候(くださるべくそうろう)為其如此(かくのごとき)に御座候 以上
慶応四年正月              日本(にほん)防長国主(ぼうちょうこくしゅ)(花押)
英 国 水 師 提 督
足(そっ)  下(か)
同日上国事変の為、海内変乱に備えるという令を藩内に示す
(令(れい)文(ぶん))
昨九日桂(かつら)太郎(たろう)京師より帰国報知有之此御方薩土両藩一同兼ねて伏見鳥羽両所御守衛被仰付(おおせつけられ)置き候処徳川兵不待朝命過ぎる三日押して
致し入京候に付両藩申合せ及応接候処一旦引取無間(むけん)大兵(たいへい)引き連れ致し乱入候に付不得止(やむをえず)及防戦候背王命(おうめいにそむく)ものは速やかに可誅鋤(ちゅうじょ)候段
従朝廷(ちょうていにしたがう)御沙汰有之既に仁和寺宮(にんなじのみや)様(さま)為征討将軍進発相成候(しんぱつあいなりそうろう)次第に就いては此余(このよ)海内(かいだい)如何体(てい)之変乱に可立致すも難計(はかりがたく)に付王城(おうじょう)
御守衛は勿論四境之兵備等尚更手堅く被仰付候条兼ねて御布告之旨を守り就いても実地之覚悟相定何分(あいさだめなにぶん)之御指揮相待ち可申候事(もうすべくそうろうこと)
同日又京師の情勢・切迫するを以て藩内で除忌服(きぶくをのぞく)を令する
(令文)
父母之忌は兼ねて御沙汰之趣も有之候得共上国の形勢相迫り候就いては届出だけで
都(かつ)ての忌中(きちゅう)血忌(ちいみ)とも被成御免(ごめんなされ)候事
十二日坪井竹槌野村(のむら)屯を鳥取(とっとり)に遣り公・父子等の復位を報じ藩主池田氏の起居(ききょ)を問(と)う、贈るに轡(くつわ)三口(みつくち)・勝(かつ)節(ぶし)一厘(いちりん)を以てする十七日公・此日発途の第六大隊(原注:世子の
余談 野村  周南市野村と思われる
先発兵)を書院庭上(しょいんていじょう)に召し謁を賜う併せて公章(こうしょう)の軍旗を授け又其大隊司令士補助長官及び均しく先発上京を命じられている軍政方・器械方を書院に召し謁を賜う二十日防州吉敷郡(よしきぐん)台道村(だいどうむら)農民仁兵衛に銀五両を賜う他(ほか)・邦人(ほうじん)査閲(さえつ)に任じて能く其職を尽し
四境戦争の際の如き闔(こう)村(そん)協議して小字を海岸必要の地と結び交番夜を守り他邦人の潜入を防ぐ等の功あると賞するという此日花(か)山(ざん)院(いん)家(いえ)理(のり)卿の党(とう)与(よ)を抑留(よくりゅう)するという事あり之より先・赤穂浪士児島(こじま)備後(びんご)介(のすけ)
(原注:初め
長年(ながとし)と称する)豊後(ぶんご)佐伯(さえき)の人青木武秀宇佐(うさ)の浪士下村次郎太杵築(きつき)の浪士・山口訊太郎等相謀り花山院家理卿を奉じて兵を九州で挙げようとする前年十二月備後介は家理卿を擁護して大島郡久賀村(おおしまぐんくがむら)に来り
余談 佐伯  大分県
大洲(おおず)鉄(てつ)然(ねん)・中原彦九郎に内意を告げ覚(かく)法(ほう)寺(じ)に潜入して時機(じき)を待(ま)つ、兼ねて浪士下村次郎太杵築(きつき)の浪士山口訊太郎等相謀り花山院家理卿を奉じて兵を九州で挙げようとする前年十二月備後介は家理卿を擁護して大島郡久賀村(おおしまぐんくがむら)に来り大洲(おおず)鉄(てつ)然(ねん)・中原彦九郎に内意を告げ覚(かく)法(ほう)寺(じ)に潜入して時機(じき)を待(ま)つ、兼ねて其党の浪士等肥前天(あま)草(くさ)の幕府代官所を襲い金銭を奪掠することあり既にして又我藩の名を用い豊前四日市(よっかいち)に於て金銭を奪掠する等の暴行あり我政府野村右仲に命じ兵を率い赴いて之を鎮圧させる⦅原注:正月十四日夜平野四郎・佐田内記兵衛等豊前四日市町で暴行し次いで宇佐八幡宮後御(お)許(もと)山(さん)に拠る廿一日野村右仲第三大隊
余談 平野四郎  若月隼人の変名と思われる
一小隊を率い四日市町に至り之を鎮撫し佐田を斬り平野を自殺させて御許山を攻撃し与党二人を殺す其他四散(しさん)し事平(たい)らぐ⦆幾もなく同党の浪士山口訊太郎(原注:時に兵部と
変称する)等十余人は久賀村に来り家理卿を擁して九州に下らせようと欲し途次(とじ)室積(むろづみ)に上陸(じょうりく)し頗(すこぶ)る威(い)福(ふく)を飾る因って槇村半九郎(まきむらはんくろう)を室積に遣り浪士等を追捕(ついぶ)させる半九郎・家理卿を謁(えっ)し、浪士等を交付(こうふ)することを迫る家理卿聴かず乃ち浪士等を逮捕し
家理卿を保護(ほご)して他に移し遂に岩田村(いわたそん)郷士国光武左衛門の家を以て其仮(かり)館(やかた)に充て後・朝命に依り京師に返還する⦅原注:家理卿久賀村潜伏中、王政維新の盛事(せいじ)あり児島備後介・家理卿の意(い)を銜(ふく)み上京する
余談 岩田村  光市岩田
備後介・三条・大原沢等の諸(しょ)卿(きょう)に謁し請う所あり遂に九州方面同志の士を糾合(きゅうごう)して王事に勤むだろうという密勅を得たと云う九州の暴行及び室積に於て逮捕の事件等は備後介不在中(ふざいちゅう)の事である備後介が
久賀村に帰ると家理卿等が已に発途するのを聞き追って室積に至る浪士等已に逮捕の後で備後介亦捕うから就く蓋し備後介が京都に於いて朝廷に請い得た所の如きは我藩が未だ知らず所で同党浪士等の暴行は寛恕(かんじょ)すべからず但し家理卿は朝(ちょう)紳(しん)である故を以て特に之を寛待(かんたい)し待って之を返還するとして三月十三日鞠府(まりふ)丸(まる)に便乗させた逮捕の浪士等は後(のち)・各々其本籍地に返還する⦆廿六日公萩(はぎ)に至り明倫館(めいりんかん)別殿(べつでん)に宿る
廿九日上国の形成に察し上関(かみのせき)・下(しも)関(のせき)通行船舶(せんぱく)検査(けんさ)の法を厳にして徳川氏の船並びに其用を為すものは通航を停め糧米・機械類は之を没収し乗船者も亦事情によりこれを抑留させる会津・松山(原注:伊
予)
高松・荘内・唐津・松江・桑名等徳川氏に投与する者之に準ず此月三田尻海軍局内に語学校を設け米国人某(なにがし)を聘(へい)して教授させる二十五日に至り洋学塾と唱え海軍局をして之を管轄させる藩士の入塾する者多し又萩・明倫館内の歩兵塾・兵学校・騎兵(きへい)塾(じゅく)より各(おのおの)生徒両三名を派し米人に随って各学科の要(かなめ)を習得させる此月より数月に渡り薩摩・芸州・津和野・小倉(こくら)等の諸藩より前後使を遣り、物を贈り以て公・父子の復位・復官(ふくかん)を駕する者多し亦前後使を遣り之に答え藩内士民亦多く金品(きんぴん)を献じ慶(よろこ)ぶと致す献納(けんのう)金銭は公思う所あって別に貯積(ちょせき)して臨時機密の資(し)用(よう)に充てさせ又世子の東上(とうじょう)に関し藩内士民が金品を献じ祝意を
表すことを請う者前後陸続(りくぞく)である二月五日諸官僚(かんりょう)一令(いちれい)して諸費(しょひ)節倹(せっけん)を怠(おこた)らないだろう
(令文)
先年来御手当向厳重被仰付度々之攘夷からして四境之戦争等古今未曾有(みぞう)之御物入り
多端之御雑費相(ござっぴあい)崇(たかく)候(そうろう)折柄上国之形勢終に今日之御場合に立ち至り追々御人数
被差出候(さしだされそうろう)而巳(のみ)ならず若(わか)殿(との)様(さま)御進発をも被為遊候(あそばされそうろう)付いては猶又御用度(ごようのたび)不一形御事にて
最早御本勘に於ても御操(くり)出(だし)之目途更に相立兼ね候就いては先年より諸御殿(ごてん)を始め
諸役所等諸事厳重御省略之(しょうりゃくの)詮議(せんぎ)被仰付来り候得共現場其(その)廉(かど)目も不相見候然処(しかるところ)
斯かる時運に推し移し右等之実効未だ相立其他不急之廉々(ふきゅうのかどかど)行形に有之候テハ
弥(いよいよ)以て(もって)軍務に差し支え深く御遺憾被思召候下々(しもじも)に於て追々之御沙汰筋等閑に
打ち過ぎ候向こうは有之間敷(これありまじく)候得共猶又究め精力仕法等相改乍(あいあらためながら)此(この)上(うえ)諸(しょ)事(じ)
省略させる簡易之御制度相立候様引(ひき)請(うけ)引請に於て篤と可遂に詮議段被仰出候事(おおせいでられそうろうこと)
九日河野又十郎を新来(しんらい)砲艦(ほうかん)第一丁(だいいちてい)卯(ぼう)の船将とする伊予(いよ)松山(まつやま)で捕獲の汽船を華(か)陽(よう)丸(まる)と名づく同日鞠府丸は其上国より帰港するのを待ち之を「ガラパ」商会に返還すべしと命ずる(原注:後(のち)二月二十七日に至り長崎廻航(かいこう)を止(や)め兵(ひょう)庫(ご)に
廻航させる彼我の便を図り兵庫で返却しようとするという)又乙(いっ)丑(ちゅう)丸(まる)の売却を命ず十一日公萩(はぎ)を発(はっ)して山口に帰る公が萩に至ったから或は霊社(れいしゃ)に詣で或は祖先の墳墓を拝し或は諸臣を引見(いんけん)し或は明倫館に至って孔子(こうし)廟(びょう)を拝し
若しくは文武・諸業(もろわざ)の習練を巡覧し或は鉄砲局・製薬所に至り隊士の練兵を観概(おおむ)ね寧(ねい)日(じつ)なく是に至って山口の館(やかた)に帰ったという十二日公書院椽通(たるきどおり)に出て尾道(おのみち)より帰陣の第四・第五・第六の大隊司令士並びに兵士に謁を賜う
司令士等へ親論する十七日松下塾に毎年藩札(はんさつ)七百目(ななひゃくめ)を賜って塾費・修繕の資とされる去月七月同塾より請う所あったのを以てという
(指令)本書格別之御詮議を以て与え塾被仰付難出に被為(なされ)対畳表替え其外修復料として
年々七百目宛(づつ)御代官所捌(さば)きにして被立下し候事
当今別けて文学御作興(さっこう)被仰付諸県郡(もろかたぐん)へ公・米・銀被差立(さしたてなされ)郷(ごう)学校(がっこう)取立をも被仰付候由
誠に以て御盛挙(せいきょ)之程奉感服(かんぷくたてまつり)候然処(しかるところ)松下村塾之儀は先年玉木文之進(たまきぶんのしん)於松下村新道
始めて取り開き少年引き立て候内で宍戸(ししど)備後之助・吉田(よしだ)寅(とら)次郎(じろう)其外段々出来立て候人も
有之当時在官(ざいかん)之人も不少(すくなからず)候其後松太郎父久保五郎右衛門引継於自宅に致し取立最後
吉田寅次郎御咎め以後右両人之志(こころざし)を受け只今之処に小さい塾を構え引立て候内には
高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)・久(く)坂(さか)義(よし)助(すけ)・寺島忠三郎・入江(いりえ)九一(くいち)・吉田年丸其外当時世が用い之衆も連々(れんれん)
輩出(はいしゅつ)之儀にて此点少しく教化裨補(きょうかひほ)ないわけではないと考え居り候に付各申合せ先(せん)師(し)之
遺志を継述(けいじゅつ)し互いに模擬(もぎ)仕度(したく)同志の中糾合罷在候(きゅうごうまかりありそうろう)処傍ら当時物価騰貴(とうき)に付少々宛(ずつ)之
出銅位では畳屋根之取繕(とりつくろ)い其外諸雑費之目無し之礑(はた)と差(さし)閊(つかえ)之当惑罷在候間諸県郡郷校(きょうこう)之
振りも有之事に付相応之御見(ごけん)割を以て御米・銀被立下候様奉願候(ねがいたてまつりそうろう)左候ハバ可然(しかるべく)師友(しゆう)之
節は招請(しょうせい)入り込み等仕り愈(いよいよ)以(もっ)て奮励仕度奉存候(ぞんじたてまつりそうろう)箇(か)様(よう)の儀申し出候段は甚だ以て恥入り候
訳(わけ)で此迄之死者へ対し候テモ不相済(あいすまず)と考え候得共実を以て現場不相調べ無拠(よんどころなく)差閊候(さつかえそうろう)に付御嘆(おなげ)き
申出候間旁之(かたわらの)趣(おもむき)被聞(きけられ)召し分け宣布(せんぷ)被遂御詮議可被下候(くださるべくそうろう) 以上
丁卯七月                            松(しょう) 下(か) 村(そん) 塾(じゅく)
各 中
二十日毛利平六郎朝廷の允許(いんきょ)を得て英国に遊学する(原注:三月三日兵庫出発
閏四月二十九日英国着)
毛 利 平 六 郎
余談 毛利平六郎=毛利元(もうりもと)功(いさ)の幼名
此度航海英国ロンドン遊学願之通(ねがいのとおり)被聞召(ききめされ)当今之形勢に当り尤も専務之儀断然立志(だんぜんりっし)之条神妙思召(おぼしめし)候為
皇国編勉励可有之(これあるべく)御沙汰候事(二月二十日)
二十三日毛利(もうり)左京(さきょう)亮(のすけ)・宗五郎公子を養子と為すように請う允許される左京亮(原注:甲斐(かい)守(のかみ)
余談 毛利左京亮=元(もと)周(ちか)・宗五郎=元敏(もととし)の幼名
元(もと)運(ゆき)の甥(おい))は甲斐守の養子を以て家を嗣ぐ宗五郎(原注:甲斐守元運の五男(ごなん)
で左京亮の従兄弟(いとこ))は甲斐守の実子で且つ左京亮嗣子(しし)いないを以て之を養嗣子(ようしし)としようとし
客(かく)月(げつ)二十一日此儀を請願(せいがん)し公も亦賛した是に至って此允許ある時に左京亮四十二歳・宗五郎二十歳
三月四日公堅田(かただ)大和(やまと)に謁を賜う尾道より凱旋するを以てという五日毛利左京亮病を以て隠居し宗五郎家を継ぐ是より先(原注:二月
二十八日)左京亮隠居宗五郎家督の事を朝廷に請い允許を得ているを以てなり六日公・尾道より凱旋の鋭(えい)武(ぶ)隊(たい)長官等を書院二之間(にのま)に召し謁を賜う九日鞠府丸及び華陽丸に摂(せつ)海(かい)廻航を命ず⦅原注:鞠府丸は花(か)山(ざん)院(いん)家(いえ)理(のり)卿(きょう)並び清(きよ)末(すえ)兵(へい)一手(いって)本藩(ほんぱん)諸(もろ)役員一同を乗せ十三日三田(みた)尻(じり)を発し大阪に赴く華陽丸
余談 摂海  大阪湾
は十三日までに馬関(ばかん)廻航を命じられたにもかかわらず十七日漸く馬関に着し奇兵隊の兵を乗せ即夜解纜(かいらん)する⦆十二日朝廷吉川(よしかわ)監物(けんもつ)を宗家毛利氏の末家(ばっけ)とする諸侯の斑に列す公・年来吉川(きっかわ)氏(し)を支藩(しはん)の一(ひとつ)とすると
いう念あり未だ果さず今や時勢一変するのを機とし二月八日上書(じょうしょ)して之を請う三月五日允許の内示(ないじ)あり此日此命あったという十二日清末侯毛利(もうり)讃岐(さぬき)守(のかみ)山口に来る将に上京しようとするを以てなり公人(こうじん)を遣(や)り
慰問させる十三日讃岐守・公に謁(えっ)し別れを告ぐ公之を饗(きょう)し且つ贐(はなむけ)スルと羅紗(らしゃ)若干を以てする十八日三田尻に赴き宗五郎・対馬守と会見する対馬(つしま)守(のかみ)海路三田尻に来り会見を請ったと以てなり二十日公・対馬守を饗する互いに贈品(ぞうひん)あり同日公・三田尻を発し山口に帰る途で海軍局に臨み洋学塾に至り雇(やとい)入(い)れの米国教官に就き器械の説明其他洋書(ようしょ)を一覧し又海軍局の修業(しゅうぎょう)を巡視し米国教官に特に蒔絵(まきえ)の小卓(しょうたく)を賜う
二十八日京都に於て鋭武隊の帰国を命ず山陽道鎮撫総督守衛(しゅえい)の任(にん)終った・を以てなり此(この)月(つき)下旬毛利宗五郎・吉川芳之(きっかわよしの)助(すけ)及び吉川(きっかわ)監物(けんもつ)の使者吉川采女前後山口に来り公に謁(えっ)し宗五郎は家督の恩を謝し芳之助・
采女は吉川氏支封(しほう)に列する接遇贈遺(ぞうい)例に因る特に芳之助に賜うと趣意書(しゅいしょ)を以てする
(芳之助に与えた書)
御手前家筋之儀積年存慮之(せきねんぞんりょの)趣此度(こたび)朝政御一新之折柄先達て朝廷向かう奏(そう)達(たつ)願出(ねがいで)置き候処
向後(こうご)可為(たるべき)末家旨御沙汰相成御同慶(どうけい)之至り候就いては愈(いよいよ)以(もっ)て本(ほん)枝(し)一体同心戮力(りくりょく)為し
皇国申合せ誠忠(せいちゅう)相尽し度候事
此月下旬又鷹(たか)司(つかさ)公(こう)子(し)淳丸・壬(み)生(ぶ)公(こう)子(し)胤丸共に留学の為・山口に来る公厚く之を遇(ぐう)し
余談 鷹司=鷹(たか)司(つかさ)輔(すけ)政(まさ)・壬生=壬(み)生(ぶ)基(もと)修(おさ)と思われる
教養の事(じ)意(い)を用いず所なし二人留まること年(とし)あり明治四年に至って帰洛(きらく)する
(脚注)鷹司淳丸は三月十九日京都を発し四月四日山口着、壬生胤丸は三月二十四日山口着という二人は明治四年正月帰京する

08/08/2024

付記 有地品之(ありちしなの)允(じょう) 長州藩士。
干(か)城(じょう)隊(たい)士(し)で奥羽に出陣。大正6年、枢密(すうみつ)顧問官(こもんかん)となる。浅野(あさの)美作(みまさか)守(のかみ) 旗本・若年寄。浅(あさ)野(の)氏(うじ)祐(すけ)。
慶喜が江戸城を退去し、寛永寺に移る際に平岡(ひらおか)道弘(みちひろ)らと随行し、
水戸へ慶喜に随行した。
井田(いだ)年之(としの)助(すけ) 高田の廻船問屋。
北陸・会津の情勢を探り、新政府軍の
長岡城攻撃に先導役をはたした。稲葉(いなば)美濃(みの)守(のかみ) 老中・京都所司代。稲(いな)葉(ば)正(まさ)邦(くに)。
慶応4年2月に老中職を辞して、朝廷から上洛(じょうらく)要請(ようせい)に応じる事になるが、
三島宿で秘かに新政府への嘆願書を持っていたことが発覚する。
五十嵐伊(いがらしい)織(おり) 新潟県南蒲原郡田上町生まれ。
寺泊の商家の養子。明治2年9月4日大村益次郎を襲撃(人名録参照)。飯田(いいだ)千蔵 長州藩士。
第四大隊補助長官。明治元年八月十四日羽後(うご)角間(かくま)川(がわ)(大仙市角間川町)で傷、
9月3日秋田病院に18才で死す(人名録引用)。
井伊(いい)右京(うきょう)亮(のすけ) 与板藩主。井(い)伊(い)直(なお)安(やす)。
戊辰戦争では官軍に与して功績を挙げた。この戦争の影響で
一旦閉校となった藩(はん)校(こう)正(しょう)徳(とく)館(かん)を再興した。       宇田(うだ)栗(りつ)園(えん) 京都府長岡京市(ながおかきょうし)生まれ。医師・漢詩人・歌人。
岩倉家の執事扱いとなり、京都に居を移し、御所の保存に尽力。
梅沢孫(うめざわまご)太郎(たろう) 水戸藩士。一橋家家臣・慶喜の側近。
戊辰戦争の際は直接関与しなかったものの、高橋(たかはし)泥(でい)舟(しゅう)と共に
須(す)永(なが)伝(でん)蔵(ぞう)を使って仙台・二本松藩などへ謀略をはかろうとしたが、未遂に終る。大(おお)童(わら)信(しん)太(だ)夫(ゆう) 仙台藩重臣。江戸留守居役。
佐幕派として追及されるが、福沢諭吉の奔走で許され、警視庁などに勤める。
大洲(おおず)鉄(てつ)然(ねん) 寛(かん)法(ほう)寺(じ)の僧。
慶応1年、寺を継ぎ、翌年護国団(ごこくだん)を組織し幕府の長州(ちょうしゅう)再征(さいせい)と戦う。川勝(かわかつ)備後(びんご)守(のかみ) 旗本。川(かわ)勝(かつ)広(ひろ)運(かず)。
慶応4年正月23日、恭順派に与して若年寄に進み、戊辰の役の際は、
勝海舟・大久保一翁らと共に江戸開城に尽力した。
花(か)山(ざん)院(いん)家(いえ)理(のり) 公家。侍従。正(しょう)三位(さんみ)。
左(さ)近(こん)衛(のえ)中(ちゅう)将(じょう)。明治1年1月20日、周防室積(すおうむろづみ)(山口県光市)において拘禁(こうきん)され、京都へ護送される。桂(かつら) 太郎(たろう) 長州藩士。
陸軍にドイツ式兵制を取り入られ、三度首相となる。
堅田(かただ)大和 長州藩家老。堅田(かただ)少輔(しょうすけ)の通称。
討幕軍、山陽道出兵総督に任じられ、
明治元年1月、福山城を攻略した。吉川(きっかわ)芳之(よしの)助(すけ) 岩国藩主。
元服して、吉川(きっかわ)経(つね)健(たけ)に改称。東北戦争で功績を挙げる。
清(きよ)岡(おか)公(とも)張(はる)・岱(たい)作(さく) 土佐藩士。官僚。
乾退(いぬいたい)助(すけ)に脱藩を提案。
甲斐府権判事(かいふごんはんじ)、福島県権知事等を経て司法省に出仕。木戸(きど)準一郎(じゅんいちろう) 長州藩士。木戸孝允の旧名。
1866年に藩を代表して薩長同盟を締結した。
久保(くぼ)松太郎 長州藩士。久保(くぼ)清太郎(せいたろう)の通称。
筑前(ちくぜん)伊崎(いざき)(福岡市)代官、山口藩会計主事などを歴任。
明治3年、山口県権大参事となる。       小(こ)林(ばやし)柔(じゅう)吉(きち) 安芸藩士。
慶応3年、民間有志による神機隊(しんきたい)を組織し、
備後・備中の鎮撫に参加する。
児島(こじま)備後(びんご)介(のすけ) 赤穂の商家。児島(こじま)三郎(さぶろう)の通称。
花(か)山(ざん)院(いん)家(いえ)理(のり)を擁して九州での挙兵を計画するが、
途中、萩藩士に捕らえられる。       後藤(ごとう)象(しょう)二郎(じろう) 土佐藩士。
藩主山内(やまうち)豊(とよ)範(のり)に大政奉還の建白をすすめ、
新政府の参議となる。
四(し)条(じょう)隆(たか)平(とし) 公家
明治2年9月初旬、若松県知事兼若松城守に就任。須(す)永(なが)伝(でん)蔵(ぞう) 一橋家家臣。
慶喜に従って水戸へ行く。宗(そう) 対馬(つしま)守(のかみ) 対馬(つしま)府中(ふちゅう)藩主。宗(そう) 義(よし)達(あき)の官位。
新政府に与して大阪まで軍を進める。
副島(そえじま)次郎(じろう) 佐賀藩士。副島(そえじま)種(たね)臣(おみ)の通称。
明治維新に参与・制度事務局判事となり、
福(ふく)岡(おか)孝(たか)悌(ちか)と共に「政体書(せいたいしょ)」を起草。   高(たか)橋(はし)実(さね)村(むら) 公家。京都出身。
諸国鎮撫の勅使を名乗って甲州入りするが、
金榖(きんこく)、および兵員を裕福な町家(ちょうか)から強(きょう)請(せい)した。伊逹将監(だてしょうげん) 水沢(みずさわ)伊達家当主。伊逹邦(だてくに)寧(やす)とも呼ばれた
留守邦(るすくに)寧(あき)。慶邦の代理として白河口に出陣する。
高倉(たかくら)三位(さんみ)(永祜(ながさち)) 高(たか)倉(くら)永(なが)祜(さち)の官位。
北陸道鎮撫総督に就任し酒(さか)井(い)忠(ただ)義(あき)の兵を先鋒として
越前・加賀・越中・越後と軍をすすめた。    武田(たけだ)金(きん)次郎(じろう) 水戸藩士。
天狗党の乱では、祖父や父と共に参加し、乱が鎮圧されて祖父など
376人が死罪に処されたが、若年を理由に遠島処分となる。
高(たか)橋(はし)竹(たけ)之(の)助(すけ) 南魚沼市塩沢生まれ。
居(きょ)士(し)隊(たい)を結成。新政府軍を先導。津(つ)田(だ)山(やま)三(さぶ)郎(ろう) 熊本藩士。津田(つだ)信(のぶ)弘(ひろ)の通称。
鎮撫使参謀として北陸・奥羽に転戦。
酒田県権知事・熊本藩権大参事などを歴任。
野村(のむら)右仲 長州藩士。野村素(のむらもと)介(すけ)の号。
長州征討では、当初、藩主側近として働き、小(こ)倉(くら)城(じょう)
陥落後は九州方面の軍監を命ぜられ参謀前(まえ)原(ばら)一(いっ)誠(せい)と共に戦後処理にあたる。橋本(はしもと)実(さね)梁(やな) 公卿。
東海道鎮撫総督に任ぜられて、江戸城攻撃の先鋒の一角を担い、
江戸開城の折は、徳川家に対する朝廷からの沙汰を伝達。
服部(はっとり)筑前(ちくぜん)守(のかみ) 旗本。服部(はっとり)常(つね)純(ずみ)。
慶応4年2月12日より若年寄となり、政府に出仕した。
明治4年修史局(しゅうしきょく)2等協修として地誌(ちし)編纂(へんさん)に携わる。   長(は)谷(せ)川(がわ)鉄(てつ)之(の)進(しん) 長岡藩士。
北越戦争では、居(きょ)士(し)隊(たい)幹部として活動。平川(ひらかわ)和太郎 土佐藩士。平川光(ひらかわみつ)伸(のぶ)の通称。
近藤勇が投降するきっかけを作ったと言われている。
藤沢(ふじさわ)次(つぐ)謙(よし) 幕臣。歩兵奉行・陸軍奉行・陸軍副総裁。
江戸出身。維新後官吏。事実上幕府陸軍を指揮(谷中(やなか)・桜木・上野公園資料引用)。福島九(ふくしまきゅう)成(せい) 佐賀藩士。
前山(まえやま)精(せい)一郎(いちろう)の従僕に選ばれ、戊辰戦争に参加し、
参謀添役として奥羽を転戦。
堀(ほり) 左京(さきょう)亮(のすけ) 村松藩主。堀(ほり) 直(なお)賀(よし)の官位。
明治元年5月14日、長岡に出兵し、官軍と戦う。
同年8月4日、官軍の攻撃で村松城を落とされ米沢藩に逃亡。北条(ほうじょう)相模(さがみ)守(のかみ) 狭山藩主。北(ほう)条(じょう)氏(うじ)恭(ゆき)の官位。
慶応七年の畿内(きない)における百姓一揆鎮圧や、
新政府に与しての連年の活動は、藩財政を大きく苦しめた。
福(ふく)岡(おか)孝(たか)悌(ちか) 土佐藩家老。
1863年、藩主山内豊範の側役(そばやく)に就任して
公武合体運動に尽力し、1867年、参政に就任。益(ます)満(みつ)休(きゅう)之(の)助(すけ) 薩摩藩士。
勝海舟の命を受け、山岡(やまおか)鉄(てっ)舟(しゅう)を駿(すん)府(ぷ)総督府(そうとくふ)へ送る大役を務め、
西郷隆盛との会見を成功させた。
槇村半九郎(まきむらはんくろう) 長岡藩士。槇(まき)村(むら)正(まさ)直(なお)の幼名。
明治元年、議(ぎ)政官史官(せいかんしかん)試補(しほ)となり、同年、京都府に出仕。増田(ますだ)左馬之進 佐賀藩士。増田明道の通称。
鍋島(なべしま)直(なお)大(ひろ)より指名され海軍参謀として務む。
前(まえ)原(ばら)一誠(いっせい) 長州藩士。
北越戦争に出兵し、参謀として長岡城攻略戦・会津戦線で活躍し、
維新後、越後府判事・参議を勤む。             三好(みよし)監物(けんもつ) 仙台藩若年寄。
王命で京都に行き、会津征伐の朝命を受け、
奥羽鎮撫総督と共に帰藩。
三岡(みつおか)八郎(はちろう) 福井藩士。由(ゆ)利(り)公(きみ)正(まさ)の旧姓。
福岡孝悌らと共に五箇条の御誓文の起草に参画した。毛利(もうり)讃岐(さぬき)守(のかみ) 清(きよ)末(すえ)藩主。毛(もう)利(り)元(もと)純(ずみ)の官位。
第2次長州征伐では、大村益次郎と協力して浜田藩の軍勢を打ち破った。
柳(やなぎ)原(わら)前(さき)光(みつ) 公家。
甲府城で職制(しょくせい)を定め、維新後は外務省に入省。柳沢(やなぎさわ)甲斐(かい)守(のかみ) 郡山藩主。柳(やなぎ)沢(さわ)保(やす)申(のぶ)の官位。
官軍に協力して東北戦争に参加し、
主に後方の輜重(しちょう)部隊(ぶたい)の役割を果たした。由良(ゆら)信濃(しなの)守(のかみ) 旗本。新田(にった)貞(さだ)時(とき)。
明治維新以前は由良(ゆら)貞(さだ)時(とき)と名乗る。
明治2年、新政府の中(ちゅう)大夫(たいふ)となる。
遠近附(えんきんづけ)=中士(ちゅうし)下等(かとう)。別名を馬廻通(うまかいつう)ともいう。解隊(かいたい)=隊の編制を解くこと。学官(がっかん)=学事にたずさわる官吏。義(ぎ)侠(きょう)心(しん)=正義のために弱い者を助けようとする心。冗兵(じょうへい)=むだな兵士。
資(し)用(よう)=必要とする経費。費用。実(じっ)功(こう)=実際の仕事や職務。冗官(じょうかん)=地位だけあって実際の仕事のない官職。焦慮(しょうりょ)=気をもむ。あせる(新漢語林参照)。星馳(せいち)=早く行く。また、多い。
尊(そん)位(い)=尊(とうと)い位(くらい)。高い地位。湊合(そうごう)=一つに集まること。対食差し向いで食事をとること。忠戦(ちゅうせん)=忠義を尽くして戦うこと。貯積(ちょせき)=たくわえてつみかさねていくこと。
東行(とうこう)=東の方へ行くこと。登(と)京(きょう)=都に行くこと。上京すること。弭兵(びへい)=戦いをやめる(新漢語林参照)。府(ふ)城(じょう)=国府の城郭。撫(ぶ)諭(ゆ)=安んじさとす。陛辞(へいじ)=陛下にあって辞別(じべつ)する。
編製(へんせい)=戸籍などを新しく編製すること。暴(ぼう)逆(ぎゃく)=乱暴で道理にそむく。無偏(むへん)無党(むとう)=正義や思想にこだわることなく、一定の党に所属せずに、
公平で中立の立場をとること(四字熟語辞典引用)。
出(しゅっ)務(む)=出勤して勤務すること。
出(で)米(まい)=江戸時代、大阪で、米切手の所有者が
それを蔵屋敷へ持参して請取る米。諸(もろ)県(かた)郡(ぐん)=宮崎県、一部は鹿児島にあった郡。
石和(いしわ)=山梨県笛吹市石和町。岩田村(いわたむら)(山口県)=山口県光市岩田。越知(おち)川(がわ)=兵庫県神崎郡(かんざきぐん)神河町(かみかわちょう)山田付近を流れる。覚(かく)法(ほう)寺(じ)=山口県大島郡周防(すおう)大島町(おおしまちょう)大字久(く)賀(が)東(ひがし)天(てん)満(まん)町(ちょう)4719-3。
坂本(さかもと)(坂本宿)=群馬県安中市松井田町(まついだまち)坂本。蔦(つた)木(き)=長野県諏訪郡富士見町落合蔦木地区。羽生村(はにゅうむら)(岐阜県)=加(か)茂(も)郡(ぐん)富(とみ)加(か)町(ちょう)羽生。
鋭(えい)武隊(ぶたい)=長州藩士。
総管駒井政五郎(こまいまさごろう)。隊士約三百名。方(ほう)義隊(ぎたい)=越後の草奔隊。
隊長室(むろ) 孝(こう)次(じ)朗(ろう)(上越市本町の商家生まれ)など、
隊士約100名余。北越戦争に参加、のち居士隊(きょしたい)と改称。北辰隊(ほくしんたい)=新潟県蒲原郡下(しも)興(ごう)野(や)新(しん)田(でん)(北区葛(くず)塚(つか)栄(さかえ)町(まち)付近)の
遠藤(えんどう)七郎(しちろう)を隊長に、隊員179人。

乙(いっ)丑(ちゅう)丸(まる)=ユニオン号 長州藩軍船。
イギリスから購入。排水量300トン。
推進三本マスト蒸気エンジン。華(か)陽(よう)丸(まる) 長州藩所属。運輸船。
排水量413トン。蒸気機関。

08/08/2024

(内書)
一慶喜儀謹慎恭順の廉(かど)を以て備前藩へ御預(おあずけ)可被仰付事(おおせつけらるべくこと)
一城明渡(あけわたし)可申事(べもうしこと)
一軍艦不残(のこらず)可相渡事(あいわたすべくこと)
一軍器(ぐんき)一切(いっさい)可相渡事
一城内住居の家臣向島(むこうじま)へ移り慎み可罷在事(かまかりありこと)
一慶喜妄挙(ぼうきょ)を助け候面々(めんめん)厳重(げんじゅう)に取調(とりしらべ)謝罪之道屹度(きっと)可相立事(あいたつべくこと)
一玉石(ぎょくせき)共に砕くという御趣意(しゅい)更に無之(これなく)に付鎮定之道相立若し暴挙致し候者有之(これあり)手に
余り候ハバ官軍を以て可相鎮事(あいしずめべくこと)
右之条々実効(じょうじょうじっこう)急速相立候ハバ徳川氏家名之(かめいの)儀者(ぎも)寛典の御処置可被仰付候事
十日山岡帰府(きふ)して総督府の条件書(しょ)を出す諸官(しょかん)惶惑(こうわく)して復(また)言う所なし官兵は日に府下(ふか)に迫る大久保(おおくぼ)忠(ただ)寛(ひろ)・川勝(かわかつ)備後(びんご)守(のかみ)・浅野(あさの)美作(みまさか)守(のかみ)・向山(むこうやま)隼人(はやと)正(のしょう)等諸官に謀(はか)り総督府の条件書に付
歎願する所あるだろうとする勝以(おも)為(え)らく官兵府城(ふじょう)に近く迫って諸士必死を極む時でないなら諸官の意恐らくは貫徹すること能はず官軍も亦東人(あずまびと)の動静を察知せず如(し)かず官軍江戸に
迫るという日を待って一挙其通(そのつう)不通(ふつう)を試み成否(せいひ)を天に任せようと十一日西郷吉之助江戸高輪の薩州邸に入る十三日勝高輪(たかなわ)の薩州邸に赴き西郷と会見し十四日更に薩州邸に赴き西郷と
会見し左の歎願書を出して之を西郷に托す
(歎願書)
第一カ条
隠居之(いんきょの)上(うえ)水戸表へ慎み罷在候(まかりありそうろう)様(さま)仕度事(したくこと)
第二カ条
城明渡(あけわたし)之儀は手続取計い候上即日田安へ御預け相成候様(あいなりそうろうさま)仕度候事
第三カ条第四カ条
軍艦軍器之儀は不残(のこらず)取り収め置き追而(おって)寛典の御処置被仰付(おおせつけられ)候節相当之員数相残し
其余りは御引渡(ひきわたし)申上(もうしあげ)候様仕度事
第五カ条
城内住居の家臣共(かしんども)城外へ引き移し慎み罷在候(まかりありそうろう)仕度事
第六カ条
慶喜妄挙を助け候者共之儀は格別之御憐憫(ごれんびん)を以て御寛典に被成下(なしくだされ)一命に拘(こだわ)り
候様之儀無之(これなく)様(さま)仕度事
但し万石以(まんごくい)上(じょう)之儀は本文御寛典之廉(かど)にて朝裁を以て被仰付候様(おおせつけられそうろうさま)仕度候事
第七カ条
士民鎮定之儀者精々行き届き候様可仕(つかまつるべく)万一暴挙いたし候者有之(これあり)手に余り候ハバ
其節改而相願い可申候(べもうしそうろう)間(あいだ)官軍を以て御鎮圧被下候(くだされそうろう)様仕度事
右之通屹度(みぎのとおりきっと)為取計(とりはからわせ)可申(もうすべく)尤も寛典御処置之次第前以て相伺い候ヘバ士民鎮圧之都合にも相成候儀に付
右之(みぎの)辺(あたり)御亮(りょう)察(さつ)被成下(なしくだされ)御寛典之御処置之趣為心得(こころえのため)伺(うかが)い置(おき)度(たく)候事
西郷領する所あり自ら督府に至り指揮を請う事を約し且令を諸軍に伝え明十五日の総進撃を中止する⦅注:此進撃中止に付いては実歴者の談として実は英国公使の異議があった
為であるとの説があるだけでなく東山道総督岩倉(いわくら)具(とも)定(さだ)より其父具(とも)視(み)への通信中に大同(だいどう)小異(しょうい)のこと見え其要(かなめ)に以為らく英仏等兵を横浜(よこはま)で備え而して朝廷未だ徳川氏征討に関する
公然の告知ないから従来和親(わしん)の情誼(じょうぎ)により徳川を援助するか等の言あり因って人を駿府に馳せ告知書を調達するか為一時(いっとき)進撃を中止するという但し勝・大久保(おおくぼ)・中岡より歎願の
次第もあれば徳川に対しては彼等歎願の為であると称すると当時英兵二大隊・仏一大隊神奈川(かながわ)に駐屯しているのは事実である而して官兵が是(これ)と不虞(ふぐ)の衝突あるだろう事を恐れ其
移転の英仏公使と談判に及んだ事は当時の参謀兼談判者であった木(き)梨(なし)清一郎(せいいちろう)の実話あり今案ずるに西郷は進撃中止の主動者で其動機は主として勝との談判に起因する事は疑いなく
外国公使との談判は同時に起こった事件であるに過ぎない⦆十五日幕府も亦令を江戸市中から発して人心を鎮める
此度(このたび)御征討使(せいとうし)御差し下し相成今十五日江戸表(えどおもて)御討入の風聞有之候(ふうぶんこれありそうろう)に付御歎願相成候処
大総督府へ伺い済むまで御討入の儀見合せ候旨参謀西郷吉之助相答え候に付屋敷並びに
市中共(とも)猥りに動揺いたし意外に不都合相生じ候テハ以之外(もってのほか)の儀に付諸事(しょじ)静穏(せいおん)にいたし
御沙汰相待ち候様可致候(いたすべくそうろう)
西郷は即日江戸を発し駿府に至り慶喜謝罪の条款(じょうかん)を大総督に稟(もう)し督府乃ち三道官軍の進撃中止を令し
西郷を京師に遣(や)り朝裁を仰がせる二十日西郷入京し大総督の条款書を朝廷に提出して裁(さい)を仰ぐ即日
朝議を太政官代に聞き三(さん)職(しょく)の意見を徴し西郷吉之助・木戸(きど)準一郎(じゅんいちろう)等寛典以て之に処するという可を
論じ廟議(びょうぎ)茲(ここ)に決し遂に案を具して宸裁を得た
(宸裁案)
第一カ条
謝罪実功相立候上は深厚(しんこう)の思召(おぼしめし)を以て死一等を被宥候間書面之通(しょめんのとおり)水戸表に
於て謹慎之儀可被差許(さしゆるすべき)候事
第二カ条
総督宮(そうとくのみや)思召(おぼしめし)次第可被仰出候(おおせいださるべくそうろう)
第三カ条・第四カ条
軍艦勿論銃砲に於ては不残取り収め武庫(ぶこ)引渡可申(ひきわたすべくもうし)御処置之上は追而(おって)相当
可相渡候(あいわたすべくそうろう)
第五カ条
書面之通可被許候(ゆるされるべくそうろう)
第六カ条
罪魁慶喜(ざいかいよしのぶ)死一等被宥候上は格別之寛典を以て其他の者も死一等は可被宥候間
相当之処置可申出(もうしいずべく)候事
但し万石以上の儀書面之通可被仰付(おおせつけられるべく)会津・桑名の如きは問罪之軍兵(もんざいのぐんぴょう)被差向(さしむきなされ)降伏に
於ては相当之御処置可有之(これあるべく)拒むに於ては速やかに屠り滅し可有之事
第七カ条
書面之通可被仰付(おおせつけられるべく)候事
西郷乃ち案を奉じて二十二日京を発し二十五日駿府に達して大総督府に報告し更に東下して二十九日先鋒総督の本営池上本門寺に至り朝旨(ちょうし)を橋本・柳原二卿に伝え以て江戸城開き
収むに着手する
翻(ひるがえ)って北陸道軍の如何(いかん)を見ると東海・東山両道に比するは其行進頗(すこぶ)る遅(ち)々(ち)であった⦅注:当時北陸道軍の行進迅速(じんそく)ではないのは屡々(しばしば)風雪に苦しんだか其主因(しゅいん)であるも参謀の人格
寧ろ慎重に長じ活発敢為(かんい)の断に乏しかったと因ること少なからずとは四(し)条(じょう)隆(たか)平(とし)卿(きょう)の追(つい)懐(かい)談(のだん)である当時北陸には薩長軍の中堅なく又枢機(すうき)の参謀に薩長出身者でなかった事実亦之を
忘れる可からず北陸道軍の事(こと)記録甚(はなは)だ乏(とぼ)しい此記録は主として四条卿の手記に拠る⦆始め正月十一日高倉永祜(たかくらながさち)・四条隆平二卿の北陸道鎮撫正副総督を命じられるか翌十二日檄(げき)を
発して北陸全道の諸藩旧幕代官所・諸社寺(もろしゃじ)をして其方向を稟申(りんしん)させる
(達文)
今般王政御復古に付いては王事に勤労可仕(つかまつるべく)は勿論之事候得共当今の騒擾(そうじょう)に付(つき)
方向難定(さだめがたし)人心疑惑可仕折柄に候ハバ尚(なお)存慮之次第被尋下候(たずねくだされそうろう)事
(別紙)
別紙之趣に付我等為勅使(ちょくしのため)不日可発向(はっこうべく)候得共積雪の時節途中手間取るも難計(はかりがたく)に付
御趣意の次第先ず以て書取(かきとり)相達し候間一応之御請状(いちおうのおうけじょう)早々差出可申(さしだしもうすべく)者也(正月十二日)
二十日二卿陛辞し其日大津に次(つぎ)芸(げい)州兵(しゅうへい)肥前兵(ひぜんへい)若州兵(じゃくしゅうへい)之に従う⦅注:四条手記で芸州兵二百・肥前兵八百五十とあるも是レ最初の届出等に拠ったなるべく実数は之と
必ずではなく符合(ふごう)させたようだ現に当時肥前兵の一(ひとり)首領(しゅりょう)であった福(ふく)島(しま)九(きゅう)成(せい)は肥前兵全数三であったと語る)肥前藩津(つ)田(だ)山(やま)三(さぶ)郎(ろう)芸州藩小林(こばやし)柔(じゅう)吉(きち)参謀である⦅注:四条卿は
我(わが)広沢を雇って参謀とさせようとしているも朝廷の公務之を許さなかった為我小笠原弥右衛門を雇って自己の顧問としたと云う津田・小林二人は其後総督が江戸より再度
越後口に赴いた後(のち)退職する二人は兎角(とかく)不人望(ふじんぼう)であったようだ長州兵の戊辰(ぼしん)の役日(やくび)載(のせ)る六月四日の条にも「湯浅祥之助より督府(とくふ)執事(しつじ)書簡送り来り其趣意は先般新発田(しばた)村松の
家来両人先鋒へ無断差返(さかえし)候儀は全く津田山三郎・小林柔吉処置で右二人は屹度(きっと)見込みも可有之候(これあるべくそうろう)得共意味違いに付二人共(ふたりとも)已に退身(たいしん)候以上は如斯(かくのごとく)有之間敷先鋒の者共沸騰(ふっとう)
無之様(これなくよう)督府御謝被成候由也(あやまりなされそうろうよしなり)と記す⦆是より先・越後柏崎の人星野輝実・入京し二卿を見る其叔父星野(ほしの)籐(とう)兵衛(べえ)其他附近(ふきん)民間(みんかん)の勤王の有志相謀り同志を叫び合して義勇隊を
編制し以て皇師(こうし)の東下(とうか)を待つという情を告ぐ因って輝実をして先ず発して国に帰り形勢報告の任に当たらせ又檄を諸藩に発して有志の勤王を励ます
(達文)
北陸道為鎮撫(ちんぶのため)不日及発向(はっこう)勤王の勇士有之(これあり)由(よし)兼ねて聞き及ぶ神妙の事に候此御時節柄(じせつがら)
早々馳せ集め尽力可有之事(これあるべくこと)
(越後義勇兵の略歴)
越後人仙石学(せんごくまなぶ)は其兄仙石徹と共に当時義勇隊の中の人である其語る所に拠ると越後蒲原郡に鈴木(すずき)文台(ぶんだい)と云う経学家(けいがくか)がいた義勇隊に属しているは概ね此人の感化(かんか)を受けた草奔(そうもう)の
有志である故に蒲原郡附近の者多し就中(なかんづく)長谷川鉄之助は嘗(かつ)て文台の塾頭(じゅくとう)という後・江戸及び京師に出て勤王の有志と交わり遂に七(しち)卿(きょう)に従い長州に赴き隊兵(たいへい)に加わる越後草奔の
有志が翕然(きゅうぜん)として勤王の気運を迎えるに至ったのは長谷川の力の之に与(あずか)る事多し官軍の東征(とうせい)に際し此有志等進んで嚮導(きょうどう)の任に当り長岡・与板二方面に分れて官軍に属す長岡再度の
落城後は合して一隊と為り方(ほう)義隊(ぎたい)と称し有志の中錚々(そうそう)たる者は高橋竹之(たかはしたけの)助(すけ)・脇屋式部・松田秀五郎・五十嵐伊(いがらしい)織(おり)等である有志隊の費用は蒲原郡田上村(たがみむら)の富豪田巻(たまき)一家(いっか)の義侠(ぎきょう)心(しん)で主として
之を支弁(しべん)した官軍の漸次前進するのに従う新発田領に一団の有志隊起こり又博徒(ばくと)等結合の一団も起こったから方義隊は名を居之隊(きょしたい)と改め新発田の有志団は北辰隊(ほくしんたい)又博徒の団結は金(きん)革(かく)隊(たい)と
号した此三人称(さんにんしょう)は中庸(ちゅうよう)の古語を分け用いたもので長州の前原が命名する所と覚え三隊とも後(のち)越後府(えちごふ)兵と為り兵部省(ひょうぶしょう)の直轄を受け明治三年二月頃東京に出て駐まるを命じられ十津川親兵(しんぺい)
伏見親兵と共に親兵と為り遊軍隊と称する其(その)年秋(としあき)廃(はい)刀(とう)の命(めい)あり有志等之を欲せず時の兵部太輔(ひょうぶだゆう)前(まえ)原(はら)一(いっ)誠(せい)は越後有志隊とは越後戦争以来関係浅からず前原之を慰(い)諭(ゆ)し脱(だっ)刀(とう)を欲するは蝦夷地
屯田兵(とんでんへい)であることを勧め有志等猶(なお)之を欲せず以為らく始め勤王攘夷を以て起こる今や勤王の業(わざ)・遂(と)げる攘夷の事は則ち時勢既に違え解隊(かいたい)するも可(か)ならずと遂に解体に決す政府賞(しょう)典(てん)金(きん)及び
帰耕(きこう)金(きん)を賜う但し賜(し)金(きん)は団体の負債(ふさい)償却(しょうきゃく)に充用(じゅうよう)する為個人としては何等の得る所なし仙石語る所大略此の如し奇兵隊日記に越後の郷士吉田省之助・芳賀喜三七・井田(いだ)年之(としの)助(すけ)の三人が
朝命により北陸道官軍嚮導であったこと及び芳賀・井田等が毎々(つねづね)敵情偵(てい)察(さつ)を為(な)すことを記すのを見る仙石の語る所に拠れば芳賀は則ち高橋竹之(たかはしたけの)助(すけ)の変名という
二十二日大雪を冒し大津(おおつ)を発し道を湖西(こせい)に取り堅田(かただ)・今津(いまづ)・熊川(くまかわ)を経て二十五日若州小浜(おばま)に着す(注:行進中随兵(ずいひょう)の幾分(いくぶん)は時々一日若しくは二日
先発等の事あれども今皆幹部の行程を記す)翌二十六日酒井(さかい)右京(うきょう)大夫(のだいぶ)在京中の故を以て
余談 酒井右京大夫  忠義(ただあき)
老臣より勤王奉(ほう)命(めい)の誓書(せいしょ)を領受(りょうじゅ)する(注:累代蒙天恩(てんおんをなされ)候儀固より勤王之外他念無(たねんなく)御座愈(いよいよ)朝命遵奉(じゅんぽう)可仕(つかまつるべく)候云々爾(じ)後(ご)諸藩の奉命書大概(たいがい)同じ文(もん)言(ごん)という)二月朔(さく)日(じつ)随行及び若州兵の調練を
観る五日小浜を発し七日敦賀(つるが)に着す先年此地で惨死(ざんし)の武田武生の孫金次郎其(その)他(た)数人(すうにん)此地で拘禁(こうきん)されるのを聞き十一日命じて之を解き・面(めん)見(けん)を許し小浜藩をして京都に護送させる(注:十六日発
十九日京都着此外武生に随従する軽輩(けいはい)数十人流刑の宣告を受け時節の変化の為其刑を実行するのに至らず敦賀に拘禁された者あり是等も此時解放された)十三日敦賀を発し十五日福井に着す此日
京都より使(し)人(じん)至り天皇親政の大議決定の告知書及び官軍東征(とうせい)の部署(ぶしょ)定まり随って北陸道鎮撫正副総督は東征・北陸道先鋒兼鎮撫正副総督に改め随従諸藩兵は均しく先鋒兵であるべきという命令を
齎(もたら)し同時に陸軍諸法度(しょはっと)及び所謂廟(びょう)算(さん)というもの等を送り来る於是(ここにおいて)乎高倉・四条二卿及び随行諸藩兵は東征先鋒の性質に変じ鎮撫の任務は反(かえ)って之が従ってと至る而も一行の動作は依然相同じ
という二十一日諸兵(しょへい)の練兵を閲(えっ)し二十五日藩主の先導で福(ふく)井(い)城(じょう)の本丸及び二ノ丸等を巡視し二十八日福井を発し晦日(みそか)小松(こまつ)に次ぐ京都より三月五日親征の期に決するという報(ほう)至る翌一日小松を発し
二日金沢(かなざわ)城下(じょうか)に着す五日金沢城の東丸・二ノ丸等を巡視する八日金沢を発し十日越中(えっちゅう)富山(とやま)に次ぐ此日親征日限(にちげん)延期(えんき)の報京都より至る翌十一日富山を発し十五日高田(たかだ)に着す十七日高田藩主榊原(さかきばら)
式部(しきぶ)大輔(のたいふ)・村松藩主堀(ほり) 右京(うきょう)大夫(のだいぶ)・与板藩主井伊(いい)右京(うきょう)亮(のすけ)来謁し勤王奉命の書を呈する各藩重臣を召し相戮力(りくりょく)して守備警戒に勖(つと)めさせ此時に方(あ)たり東海・東山両道の官軍は頻りに進んで既に
江戸に迫る大総督府檄を飛ばして北陸道軍が速く進を促す二卿以下因って大軍議を高田で開く提議(ていぎ)二つあり一つは曰く東北の形勢日に非なり王師一度(ひとたび)去るなら万事休す且つ勤王義勇隊を奈何(いかん)せん
不得止(やむをえず)見兵(けんぺい)を二分し二卿の一(ひとつ)は留まって越後の局面に当たろうと一は曰く東北は末(すえ)である関東は本(もと)である今日の事は越後方面の為関東を後にする可からず而して随従兵員は寡少(かしょう)なり之を二分するに
得ないと津田・小林二参謀固く後説(こうせつ)を主張し議遂に之に決する(注:第一説は四条卿の意見で小笠原弥右衛門其他賛同(さんどう)の者(もの)多く且つ義勇隊の首唱者(しゅしょうしゃ)星(ほし)野(の)籐(とう)兵(べ)衛(え)亦切に此議で決することを冀(こいねが)うも
二参謀遂に執(しゅう)して動かなかったと云う)因って附近諸藩の重臣を召し高田藩と協議し勤王の実功を挙ぐ、可きことを諭し十九日一行高田を発し二十二日阪本に次(じ)する二十三日二卿微恙(びよう)あり滞陣する
此日三月二十一日を以て親征の期とする報京都より至る又此月十五日を以て江戸城攻撃の期とするも方略あって延期するとの報亦江戸より至る二十四日再び発途(はっと)二十七日碓氷(うすい)峠(とうげ)を越え晦日高崎(たかさき)に
達する直ちに進んで江戸に向おうとし参謀小林(こばやし)柔(じゅう)吉(きち)をして先ず東山道総督の所在に赴き礎(いしずえ)陣地等の事を協議する

08/08/2024

海陸軍
慶応四辰の年              大  総  督
二月十五日天皇有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)に錦旗(きんき)節(せっ)刀(とう)を授け即日副総督正親町(おおぎまち)中将(ちゅうじょう)参謀西四辻(にしよつつじ)大夫(たゆう)
西郷吉之助(さいごうきちのすけ)林玖(はやしく)十郎(じゅうろう)を随(したが)へ京師を発し陸路進軍(原注:筑前兵(ちくぜんへい)
津和野兵(つわのへい)随従)三月五日駿府に至り
駐営(ちゅうえい)する。時に両道の官軍頻りに進んで江戸に迫る其経歴を左に叙述(じょじゅつ)する
東海道に進むべき官軍は薩州・長州・肥後・大村・備前(びぜん)佐土原(さどわら)等の諸藩兵である(原注:此(これ)等(ら)諸藩の
兵数分け明らかならず)但し橋本柳原二(に)卿(きょう)曩(さき)に既(すで)に鎮撫総督として出発するを以て先鋒兼(けん)
鎮撫正副(せいふく)総督(そうとく)と為し其兵も正月下旬桑名を攻め之を降(くだ)し現に桑名に在ったものに更に新兵を
加え其来着を待たせる二月中旬桑名に集中を了わり尋いで出発三月五日駿府に着し更に進んで
箱根に至り関門を作り長州薩摩大村の兵之を守り二月十九日先鋒薩長人(さっちょうじん)小田原に至り三月六日
藤沢に至りさらに進んで川崎に至る沿道一(ひとつ)の支障なし川崎に至るに及び八王子(はちおうじ)附近不穏の徴(しるし)ある
を聞知(ぶんち)し我長州藩及び他三藩の兵若干を分けて之を派遣し(原注:此偵察隊は長州兵芝(しば)青松寺(せいしょうじ)に
余談 青松寺  港区愛宕
至った時帰来する)
本軍は三月十二日品川に着し尋いで高輪(たかなわ)薩州(さっしゅう)邸(てい)に入り総督橋本柳原二卿は池上本門寺(いけがみほんもんじ)で営む
東山道に在っては岩倉(いわくら)兄弟(きょうだい)鎮撫正副総督として正月二十一日陛辞(へいじ)し錦旗を奉じて途(と)に上(のぼ)り其日
大津驛に次参謀宇田栗園補(ほ)翼(よく)香川(かがわ)敬三(けいぞう)・清岡(きよおか)公(とも)張(はる)(岱作(たいさく))北(きた)島(じま)秀(ひで)朝(とも)(千太郎)監察原保(はらやす)太郎(たろう)
岩村(いわむら)高俊(たかとし)(清一郎)平川光(ひらかわみつ)伸(のぶ)(和太郎)等之に従う山科(やましな)郷士(ごうし)多田(ただ)郷士(ごうし)・力士隊等之に属し尾州兵
土州兵前後を護衛し大垣兵先鋒だ、二十二日東山全道(ぜんどう)に布告すると民情綏撫(みんじょうすいぶ)の趣旨を以てする
二十五日越知(おち)川(がわ)に至り本道の諸藩主に令すると本営に至り各自将来の方向を陳ずべきと以て
二十七日耆(き)老(ろう)孤窮(こきゅう)忠(ちゅう)孝(こう)節(せつ)義(ぎ)の録上(うえ)を令し二月朔(ついたち)大垣に至り本営を置く既にして朝廷東征(とうせい)の
部署を定めるに及び兄弟を以て先鋒兼鎮撫正副総督とし兵員を増加して東行(とうこう)させる是に於て乎(か)
兄弟は大垣集中の薩州・長州・因州・彦根・土州・大垣・市(いち)橋(はし)高須(たかす)の諸藩兵四千余人を率い二月二十一日
大垣を発し加納(かのう)に着す時に信濃・下諏訪・甲斐(かい)府中(ふちゅう)に於て官軍と仮称して横行するものあるとの報に接し
一部隊を斥候として派遣するに決し長州・因州・薩摩・土州・大垣の各藩兵各(おのおの)若干を一団として即日
前行(ぜんこう)させる(原注:長州兵は一分隊で
梨羽才吉之を率い)中軍が上諏訪に達するか参謀乾退(いぬいたい)助(すけ)(原注:今の伯爵
板垣退(いたがきたい)助(すけ))土佐・因州
両藩兵を率いて分けて甲州に入る⦅原注:元来甲州は東海道先鋒の区域に属すべきも東山進軍が諏訪に至るか速やかに
甲州を徇(したが)え幕兵が来り拠(よ)ると防ぐべきという要(かなめ)を見ただけではなく未だ東海道軍之に着手する状を見ず、而して両道の
軍は互いに相応援して機宜(きぎ)を制すべきという朝命を奉じるを以て此(この)手段(しゅだん)を取ったと云う是より先キ高(たか)松(まつ)実(さね)村(むら)(今の子爵)を
戴(いただ)いた浪士の一(いち)輩(やから)此地に入って甲府を略定(りゃくじょう)しようとしたことあり本文で謂(い)う所(ところ)の仮称官軍即ち是レである幾らもなくして
朝命により召還(しょうかん)された⦆此別軍は(原注:土佐・因州兵の外に高島藩兵一小隊を附して
嚮導(きょうどう)とする高島藩とは即ち上諏訪藩である)三月三日上諏訪を発し(原注:其先鋒兵は
此日蔦(つた)木(き)を発し四日甲府に入る蔦木は上諏訪より甲府に至る道路上六里余に在り)五日甲府に着す時に新選組の首魁(しゅかい)近藤(こんどう)勇(いさむ)(原注:
当時大久保(おおくぼ)剛(たけし)と称する)江戸より入り来て(原注:兵凡そ二百と
称する)既に笹子(ささご)峠(とうげ)を超えて勝沼(かつぬま)(原注:勝沼は甲州街道上
甲府の東方三里余にある)に
陣し若干の防禦(ぼうぎょ)工事(こうじ)を施して官軍を阻止しようとする六日官軍五小隊・砲隊若干(原注:片岡(かたおか)健(けん)吉(きち)
谷守部(たにもりべ)等之を率い)を以て石和駅(いしわえき)を発す
余談 谷守部  谷(たに)干(かん)城(じょう)の通称
(原注:石和は甲州街道上
甲府の東方一里にある)官軍は敵情未だ審らかならざるを以て甲府到着後直ちに之に出(しゅつ)戍(じゅ)させたという官軍前進勝沼に至り
敵の所在を知り、兵を三とする一(ひとつ)は本道より(原注:因州一小隊及土州
砲隊谷守部之を率い)一は右の高地より(原注:土州三番隊・因州二小隊
高島兵一小隊片岡(かたおか)健(けん)吉(きち)之に長である)
一は左方の高地より(原注:土州四番隊
長谷川祁兵衛之に長である)攻撃する敵火(ひ)を民家(みんか)に放ち橋梁(きょうりょう)を徹して防戦太(はなは)ダ力め勝敗未だ分れず会々(たまたま)左側に出た
土州四番隊険(けん)を越えて突如敵の右側に出る敵軍大いに驚く本道の官軍勢を得て砲撃愈々(いよいよ)激し右方の兵亦急撃する敵遂に支える能はずして走る官軍
追撃笹子峠に至り因州兵は止めて之を守り他は悉く勝沼に帰って宿す翌七日因州兵が先鋒笹子を越えて八王子に向う八日全軍之に跟随(こんずい)する而して
甲府は松代藩代わって守備する東山道本軍は諏訪から本道に沿う和田(わだ)峠(とうげ)・碓氷(うすい)峠(とうげ)を越えて進み其斥候隊三月五日を以て高崎(たかさき)に達し高崎より熊谷(くまがや)まで
故あって行程を縮め八日熊谷に達する⦅原注:此間(このかん)十里に満たず江戸より止戦(しせん)哀願の使者来る因って総督本営の指揮を受ける等の為に先鋒で特に
三日間の猶予を与えたと云う哀願に対しては江戸着の上各(おのおの)道の総督合議の後だから一(いち)総督(そうとく)で答えるという限りにあらずと云うを以て却(しりぞ)く⦆
此夜(原注:午後
七時頃)官軍が派遣する間諜(かんちょう)が報ずる所によれば幕府歩兵頭古屋作(ふるやさく)左(ざ)衛門(えもん)脱走兵約千人を率い羽生村(はにゅうむら)に在り側面から我中軍を衝くという
目的をもって羽生村を発し館林(たてばやし)を経て行進し今夜太田(おおた)に宿営するという予定であると(原注:古屋等の計画は其取る所の道路より察すれば恐らくは
中軍の背後を脅威(きょうい)し且つ信州方面の小諸侯を連衡(れんこう)しようとするのにあったのだろう)此に於て各藩隊長議を決し(原注:大垣は初め幕軍と共に官軍に
抗したとして以て今帰順すると雖も其藩兵は節度(せつど)に従(したが)うという約である故に斥候隊に在って薩長二藩の隊長の意を以て決したと云う)明暁(みょうぎょう)敵が不意に
出て之を逆撃しようとし翌九日未明熊谷を発し天未だ明けざるに太田に着し(原注:熊谷(くまがや)より
太田まで約四里)駅(えき)内(ない)を点検すると敵の一兵を見ず此時敵の設営(せつえい)掛(がかり)
若干梁田(やなだ)方位(ほうい)から来るに遇う其自白に依って敵は昨夜梁田に着するという計画であると知り得たので以て意を決し之を逆撃しようとし直に太田を発し
余談 梁田  足利市内
梁田に向う時に天既に明るく程を兼ねて進み八幡(やわた)に至る敵兵未だ至らず更に進んで梁田の西方に至れば敵兵驛北の沼地を利用して其後方で散布(さんぷ)し其初めは
甚だ少数であった援兵俄かに増加する(原注:官軍勝利の後駅内に入った時家々(いえいえ)配膳を狼藉していると見たと云う
敵兵狼狽の状・察すべし)是に於て薩州・大垣の二藩兵は正面より
攻撃する⦅原注:初め長州藩兵も亦他藩兵と共に正面より向うべき計画であっても藩兵少数で功を他藩に先んじられることを屑(いさぎよ)いとせず自ら危を冒して
側面攻撃の決心をすると諸藩競って各自で功を樹(た)てるのだろうとするという時に当り此般(このはん)の事は常に人が怪しまざる所であろう⦆此長州兵は兵員甚だ
寡少(かしょう)であったでも勇(ゆう)を鼓(こ)して潜行し市街南側に出て人家を隔てる二・三米突(メ-トル)の畑中より抜刀(ばっとう)突貫(とっかん)する敵兵狼狽遁走(とんそう)する長州兵其北からを追って街路に出て
敵の放棄する大砲二門を奪う(原注:此二門の大砲は砲口(ほうこう)を西に向け以て発火の準備を為してあるとし云う)敵は、或は人家に拠って楼上(ろうじょう)より射撃し或は
貯水(ちょすい)桶(おけ)を利用して敵の目を遮蔽(しゃへい)し稍(やや)頑強なる抵抗を試み加えるに一度放棄した大砲を得る為に屡(しばしば)秋水(しゅうすい)を閃(せんせん)し迫り来り遂に其一を取り去り且つ別に一部兵を
市街の南側に出して以て挟撃しようとする長州兵乃ち見、兵を分かつ一を市街内に止(とど)めて大砲を守り一を以て南側より来る敵兵に備う此間敵兵一去(いっきょ)一来(いちらい)長州兵
苦戦甚だ力む然れども遂に一歩を退かず此時敵の遺棄した大砲を利用しようとするも、敵弾薬を残さなかったので以て大垣藩兵の三十斤砲(さんじゅうきんほう)の弾丸を以て発射した
けれども砲の口径弾丸より大であるを以て命中の功を奏する(原注:敵が棄てた砲種は
詳らかならず)然れども其砲声に依って敵の兵気頗(すこぶ)る阻(はば)む既にして其一弾丸敵が占拠する
貯水桶に中り轟然(ごうぜん)桶破れて水街上(がいじょう)に溢(あふ)れる敵大いに驚き益(ますます)其気を奪う此時本道の敵兵も漸次動揺を初め長州兵勢に乗って疾(はや)く進み急(きゅう)射(しゃ)奮闘する薩摩・大垣兵
急進突撃し敵遂に支える能はず日光街道を宇都宮方位に敗走する此戦闘三・四時間(原注:大垣藩の報告では六(む)ッ(つ)半(はん)時(どき)より九つ半時過ぎ迄とあり蓋し戦闘準備及
戦闘の諸兵整頓の時間を含有するものだろう)敵兵死傷百余人長州兵では伊藤十郎以下傷者三四名十郎は帰って熊谷(くまがや)に至って死す、官軍既に梁田(やなだ)を占領し深く敵兵を
追撃する(原注:追撃を急にさせるは
兵寡(すくな)きか為である)偶々我楢崎頼三(ならさきらいぞう)・原田良八急を聞き梁田に来着する(原注:原田は第四大隊二番小隊の
小隊長で中軍守衛である)翌日大垣兵に中軍と合し長州藩兵一中隊は
楢崎頼三之を率い羽生村(はにゅうむら)の敵(てき)巣(のす)を掃除するという目的を以て梁田を発し羽生村に向って行進する是より先は忍藩兵(おしはんへい)若干羽生村で屯(たむろ)する官軍(原注:長州
藩兵)聞いて先ず之を
撃退しようとする忍藩重臣等楢崎等を途に迎えて其兵を羽生に置いたのは再び幕兵をして占領しないだろうか為であると称し頻りに他意(たい)がないことを陳謝する楢崎等因って
忍藩兵で羽生にいる者を尽く撤退させる其陣屋を焼き行って忍城に迫り其向背(こうはい)を糺(ただ)す忍藩重臣丹羽(にわ)蔀(しとみ)屠腹(とふく)して罪を謝す十一日楢崎及び小隊長二名(原注:梨羽才吉
草刈藤次)城内に
入り楢崎は藩主松平(まつだいら)下総(しもうさ)守(のかみ)と其病室で面し且つ重臣の謝状(しゃじょう)を領収する
御応接の上以来賊徒領内へ立入する申間敷(もうすまじく)候依って一札如此(いっさつかくのごとく)
三月十一日        鳥居強右衛門(とりいすねえもん)判黜
楢 崎 頼 三 殿
梨 羽 才 吉 殿
草 刈 藤 次 殿
是より沿道事なく十二日先鋒板橋(いたばし)に着す恰も東海道先鋒品川(しながわ)に着すという日である翌日総督岩倉兄弟板橋駅(いたばしえき)に着す甲州経由の別軍は勝沼戦勝(せんしょう)の後(あと)十一日八(はち)王(おう)子(じ)に着し千人組(せんにんぐみ)
(原注:千人組は武田・北条の遺臣(いしん)で幕府の廩俸(りんぼう)を仰(あお)がず
唯五年一回日光山(にっこうさん)防火の衛を為すを以て務めとする)を慰撫(いぶ)し十三日府中駅(ふちゅうえき)に十四日四谷(よつや)高島(たかしま)藩邸(はんてい)に着す是に於て東海・東山両道の官軍全く江戸市外で集り総軍将に
十五日を期して江戸城を攻撃しようとし軍令既に全軍に下る
是時(このとき)に方(あ)たり幕府は官軍に対し敢えて抗戦の動作に出ず慶喜は此前正月十一日夜半開(かい)陽(よう)艦(かん)で江戸に着し浜(はま)御殿(ごてん)に入り翌十二日十(じゅう)余(よ)騎(き)を従え城に入る深く兵を以て輦下(れんか)を
驚擾(きょうじょう)したことを悔い且つ官軍兵を江戸に進めるなら天下の大乱(たいらん)を招くことを恐れ従来、抗戦を主張した小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)等を黜(しりぞ)ける大久保(おおくぼ)一(いち)翁(おう)・勝(かつ)安房(あわ)等を用い専ら恭順(きょうじゅん)謹慎(きんしん)
和平を以て事を了しようとする而も有司(ゆうし)の憤慨(ふんがい)激昂(げっこう)する者多し同十七日越前・土佐等六藩の重役を西丸(にしのまる)に召し追伐(ついばつ)の朝命を被るに至る驚愕に堪えず将軍の意・始めから事を
輦下に生ずべきと期しているにあらず唯先駆の者紛擾(ふんじょう)を醸(かも)しているに過ぎずの意を告げ京都に周旋して和平を計るべきことを依頼し十九日更に他の諸藩重役を招き同一の
趣意を達す然れども幕吏猶(なお)戦を主張するものないわけではない大久保・勝等城中に在るなら同僚無算(むさん)の空論(くうろん)に苦しみ家に還れば過激である士論(しろん)を慰諭(いゆ)するに難い是に於て
同二十三日大いに官吏(かんり)を淘汰(とうた)し山(やま)口(ぐち)駿(する)河(が)守(のかみ)を外国事務総裁・河津(かわづ)伊豆(いず)守(のかみ)同副総督大久保(おおくぼ)一(はじめ)翁(おう)を会計総裁成島(なるしま)大隅(おおすみ)守(のかみ)を、同副総督藤沢(ふじさわ)志摩(しま)守(のかみ)を同副総督矢田(やだ)堀(ほり)讃岐(さぬき)守(のかみ)を
海軍総裁榎本(えのもと)和泉(いずみ)守(のかみ)を同副総督とし並に若年寄並とし(原注:勝は若年寄(わかどしより)並(なみ)を
辞して許される)国内の事務は参政(さんせい)川勝(かわかつ)備後(びんご)守(のかみ)・浅野(あさの)美作(みまさか)守(のかみ)・石川(いしかわ)若狭(わかさ)守(のかみ)・松平左衛門尉(まつだいらさえもんのじょう)等をして之を
掌(つかさど)らせる此日城中で重臣会議を開く或は云う箱根(はこね)の険に因って官兵(かんぺい)を禦止(ぎょし)し関内の諸侯と結(けっ)し対峙の勢を固くしようと或は云う使者を出して入関(にゅうせき)を止めようと或は云う
君(くん)上(じょう)単騎で上京するは士気大いに振るわんと或は云う軍艦を督して摂(せっ)海(かい)に到ろうと皆王師(おうし)を拒ぐという説である勝安房・大久保(おおくぼ)忠(ただ)寛(ひろ)等大いに其不可を論じ恭順謹慎の説を唱う
余談 摂海  大阪湾を指す
(原注:勝は常に主眼を日本対外国の
大局に置いて立論(りつろん)する)慶喜・勝等の説を採り終に恭順論に決する然れども尚未だ降服謝罪の意を表わすに至らず前橋侯松平(まつだいら)大和(やまと)守(のかみ)直(なお)克(かつ)は慶喜の昆(こん)弟(てい)である慶喜に
勤むに謝罪の誠心(せいしん)を致すべき事を以て二月朔(ついたち)又登城し夜半に及ぶまで城中に留まり慶喜に説き慶喜も終に其勧説を聴き且つ上京して陳情することを依頼する丸岡藩有馬帯刀(ありまたてわき)亦
慶喜に説くと罪を一身に引くべきことを以てする同五日慶喜書を越前(えちぜん)老(ろう)侯(こう)松平慶(まつだいらよし)永(なが)に贈り謹慎罪を待つという意を述べ其周旋に依って官軍の東下(とうか)を中止することを依嘱(いしょく)し十日
前橋侯西上(せいじょう)の途(と)に就(つ)く監察黒川(くろかわ)近江(おうみ)守(のかみ)亦徳川家来中歎願書を携え候と同日発程上京する⦅原注:是より先・正月十五日慶喜書を在京松平(まつだいら)春(しゅん)嶽(がく)に寄せたでも途中の行違(ゆきちが)いにより
先供(さきども)の争闘(そうとう)の為朝(ちょう)旨(し)に触れたならば必外(ひつがい)である静(せい)寛院宮(かんいんのみや)の痛心(つうしん)もあり周旋を依頼すると云うに過ぎず尋いで正月二十一日慶喜又手書を春嶽に寄せる書(しょ)中(ちゅう)自身退隠(たいいん)し跡(あと)式(しき)は追って
余談 静寛院宮  和宮(かずのみや)
自ら人選するとのという意を記す二月四日慶喜復(また)・一書を春嶽に寄せ正書では相続は紀伊中納言に命じることを請うという意を記し副書では家臣の懇願に因り紀伊大納言への相続を
請うも此事僭越(せんえつ)の虞(おそれ)あり御三家(ごさんけ)・御三卿(ごさんきょう)の中に命ぜられたならと願い足る意を記し周旋を依頼する春嶽其上国の事情に適さずことを知り其意を慶喜に通ず慶喜更に書を春嶽に寄せ
添えると謹慎朝裁(ちょうさい)を仰(あお)ぐ此意を奏問(そうもん)することを請うとの意を記し途上の行違い等の文字ないものを以て又曩に相続者の事を云々(うんぬん)することを取消す春嶽・慶喜の書を朝廷に呈出する
其後慶喜更に十二日の謝罪書を出すという⦆
而して終始戦争を主張した閣老小笠原(おがさわら)壱岐(いき)守(のかみ)辞表を呈出し且廃嫡(はいちゃく)を乞う是より先・諸閣老皆辞し独り壱岐守いるだけ是に至って閣中一人の老臣なし十一日総出仕(そうしゅっし)あり慶喜恭順して
上野に退き後事を田安前大納言松平(まつだいら)確堂(かくどう)に依頼するという意を伝え十二日払暁終に東叡(とうえい)山(ざん)中大慈院(だいじいん)に屏居(へいきょ)し謹慎罪を待つという意を表す(原注:座する所四畳半の
小座敷(こざしき)であったと云う)同日慶喜
越前邸吏(り)に托し書を在京松平慶(まつだいらよし)永(なが)に寄せ東叡山に退居し罪を一身に引き謹慎朝裁を待つという意を記した上奏書(しょ)を添(そ)え之を朝廷に奏問(そうもん)することを嘱(しょく)する(原注:海舟(かいしゅう)記録(きろく)に拠れば
前橋侯の齎(もたら)す謝罪書として之と同文のものを載せ蓋し実際同文であっただろう)是に於て乎慶喜の謝罪は全く無条件の服罪とであったという
此度御追討使(ついとうし)御差向け可被為在哉(あらせられるべしか)之趣遥かに奉承知(しょうちたてまつり)誠に以て驚き入り奉恐入候(おそれいりたてまつりそうろう)次第御座候右は全臣慶喜一身之不束(ふつつか)より生(しょう)じ候儀に而して天怒りに触れ候段一言(ひとこと)之可申上(もうしあげるべし)様
無御座次第に付此上何様之御沙汰御座候共聊か無遺憾(いかんなく)奉畏候(かしこみそうろう)所在に而して東叡山で謹慎罷在其段下々迄(しもじもまで)にも厚く申諭仮令(たとえ)官軍御差向け御座候共不敬(ふけい)之儀等毫(ごう)末(まつ)も不為(ふため)仕(つかまつ)り心得に
御座候得共弊国(へいこく)之儀者四方之士民輻(ふく)輳(そう)之土地に御座候得バ多人数之節は猶更奉恐入候而巳(のみ)ならず億万之生霊塗炭(せいれいとたん)之苦を蒙候様では実以て不忍(しのばず)次第何卒官軍御差向け之儀は暫時御猶予
被成下(なしくだされ)臣慶喜の一身を被罰(つみをうけ)無罪之生民(むざいのせいみん)・塗炭を免(まぬが)れ候様仕度臣慶喜今日之懇願(こんがん)此事(このこと)に御座候右之趣御諒察(りょうさつ)被成下(なしくだされ)前文之次第御聞届け被為在候(あらせられそうろう)様奉歎願候(きがんたてまつりそうろう)此段奏聞(そうもん)被成下候様
奉願候(ねがいたてまつりそうろう)以上
二 月               慶     喜
花    押
別 紙
本紙奉申上(もうしあげたてまつり)候京摂(けいせつ)事件之節詰合居り候松平(まつだいら)肥後守(ひごのかみ)並要路之役々(やくやく)同様奉恐入候(おそれいりたてまつりそうろう)に付
余談 松平肥後守  松平容保
御処置奉伺(ほうし)候心得に而為慎み置き候間夫々御沙汰被成下候(なしくだされそうろう)様奉願候(ねがいたてまつりそうろう)以上
二月                      徳 川 慶 喜
前橋侯は西上って上京しようとし東海道関駅(せきえき)に至る大総督府令して東帰(とうき)させる故を以て使命を果たさずして空しく還る而して官軍東下の勢愈(いよいよ)盛んである
余談 関駅  三重県亀山市
是より先・松平(まつだいら)春(しゅん)嶽(がく)は京師に在って宗家の為に斡旋(あっせん)する事少なからず二月十八日に至り本月十二日慶喜の送る謝罪書至る翌十九日之を朝廷に上げる二十一日に至り朝批(ひ)あり謝罪の
事は宜しく大総督に申稟(しんりん)すべきという意を示さず乃ち急使を江戸に馳せ其事を報じ重臣を大総督の軍門に派遣すべきことを慫慂(しょうよう)する慶喜も亦宗室(そうしつ)親藩(しんぱん)をして総督府に至り謝罪させようと
欲し擬するに田安(たやす)侯(こう)を以て肯(がえ)んず乃ち一橋(ひとつばし)侯(こう)を擬す侯固辞(こじ)の後終(つい)に諾(だく)し三月四日江戸を発し同六日川崎に至る官軍先鋒隊長薩人中(なか)村半(むらはん)次郎(じろう)単身一橋侯の陣に至り来意(らいい)を問う・答えると
余談 中村半次郎  桐野(きりの)利(とし)秋(あき)の初名
大総督の軍門に謝罪状を献じようとするという事を以て中村曰く果たして然らば其意を督府(とくふ)に通ずべし姑(しばら)く復命を待つべしと七日一橋侯池上本門寺(いけがみほんもんじ)に退く⦅原注:此間に静(せい)寛院宮(かんいんのみや)より
徳川氏の安全を請うという使節を京都に派したこと三月三日若年寄服部(はっとり)筑前(ちくぜん)守(のかみ)目付堀貞之助を西上らせ越前藩を説き朝命を督府に下し無事を図らせることを周旋させる謝罪止戦の事は
宜しく督府に請うべしと理由を以て中途で抑止(よくし)されたことあり又輪(りん)王寺宮法(のうじのみやほう)親王(しんのう)寛永寺の執当等に奉じられ二月二十一日江戸を発し駿河(するが)に至り大総督宮(だいそうとくのみや)に会見し徳川氏の為・寛(かん)典(てん)を請う
ことあるも固より其要領を得なかった又二月二十二日に淀(よど)侯(こう)稲葉(いなば)美濃(みの)守(のかみ)謝罪使いとして上京を命じられ三月三日三島駅(みしまえき)に至り謝罪の事は督府の命を待つべしとして官軍に遮られ中仙道にも
亦由良信濃守(ゆらしなののかみ)大目付梅(うめ)沢(ざわ)孫(まご)太(た)郎(ろう)目付桜井庄兵衛を謝罪使いとし三月三日の朝を以て出発し先鋒総督府に至り止戦を請わせるも大総督宮東海・東山両道の総督と共に江戸で会議するという
後であるなら指示するのを得ないといって此(これ)を却(しりぞ)け要するに官軍の決意は始めから姑息(こそく)に平和を議せずに在ったという⦆既にして両道の官軍市外に達し江戸城攻撃の号令既に下る会々(たまたま)
西郷吉之助・勝安房の会見あり是より先三月二日勝(かつ)去年薩摩藩邸焼討の際幕府の為に捕らえられ諸藩に預けられた南部(なんぶ)弥(や)八郎(はちろう)・肥(ひ)後(ご)七(しち)左衛門(えもん)・益(ます)満(みつ)休(きゅう)之(の)助(すけ)を乞う同日之を己(おのれ)の邸(やしき)に置く
将に用いる所あるだろうという同五日旗(き)下(か)山岡(やまおか)鉄(てつ)太郎(たろう)・勝と会見し自ら官軍に使わし事(じ)局(きょく)を収(しゅう)結(けつ)するのに尽力することを請う勝・未だ山岡と相識(し)らない此時始めて之を見て其の胆(たん)気(き)ある
余談 山岡鉄太郎  山岡(やまおか)鉄(てっ)舟(しゅう)の通称
事を托するに足るべきと思い之を慶喜に告げ山岡をして其事に当たらせる且西郷に寄せるという書を作り之を山岡に托し付するに益満休之助を以て大総督本営に赴かせる(原注:此前(このまえ)屡々
謝罪使いとするという議あったでも種々の事情の為・其事未だ行なわれなかったという)其書で曰く
無偏無党(むへんむとう)王道蕩々(とうとう)矣今官軍逼り鄙府(ひふ)といえども君臣謹んで恭順之道を守れば我徳川氏之士民といえども皇国之一(ひとつ)民成るを以てと・ゆえという且皇国当今(とうこん)之形勢昔時(せきじ)に異なり兄(けい)弟(てい)墻(がき)に
せめげども外其の悔いを防ぐという時であるのを知ればという雖(すい)然(ぜん)鄙府(ひふ)四方八(はっ)達(たつ)士民数万(すうまん)来往(らいおう)して不教(ふきょう)之民我(わ)主(ぬし)之意を解せず或は此大変に乗じて不軌(ふき)を計るとの徒鎮撫(ちんぶ)尽力(じんりょく)余力を
残さずといえども終に其甲斐なし今日無事といえども明日之変誠(まこと)に難計(はかりがたく)小臣(しょうしん)殊(こと)に鎮撫力(ちから)殆ど尽き手を下すという道無く空敷飛丸(むなしくひがん)之下で憤死(ふんし)を決する而巳(のみ)雖然後宮之(みやの)尊(そん)位(い)一朝(いっちょう)
此不測之(ふそくの)変(へん)に到るなら頑(がん)民(みん)無頼之徒(ぶらいのと)何等之大変墻内(かいと)に可発哉日夜(にちや)焦慮(しょうりょ)する恭(やすし)順(じゅん)之(の)道(みち)従(したが)い是破れるといえば如何せん其統御(とうぎょ)道無き事を唯軍門参謀(さんぼう)諸君(しょくん)能(よ)く其情実を詳らかにし、其
修理を正(ただ)されようと且百年之公評(こうひょう)を以て泉下(せんか)に期すると在る而巳嗚呼(ああ)痛(いた)しだろう上下道隔てる皇国之存亡を以て心とする者少なく小臣悲歎(ひたん)して訴(うった)えを不得処なり其処置の如きは
敢えて陳述する所にあらず正しいならば皇国之大幸一点(いってん)不正(ふせい)の御挙あったなら皇国瓦解(がかい)乱(らん)民(みん)・賊子(ぞくし)之名千(せん)載(ざい)之下消す所ないだろう歟(か)小臣推参(すいさん)して其情実を哀訴(あいそ)しようとするなら共
士民沸騰半日も去る能はず唯愁苦(しゅうく)して鎮撫する果たして労するも其功なしを知る然れども其志(こころざし)達せないのは天也致于此(この)際(さい)何(なん)ゾ疑いを存ぜず恐懼(きょうく)謹言(きんげん)
辰二月                                                      勝  安  房
参謀軍門下(ぐんもんにくだる)
同六日山岡・益満休之助と共に駿府(すんぷ)大総督の本営に至り西郷吉之助と会し恭順謹慎の
意を陳じ且総督府が徳川氏に提出すべき条件の内命を乞う西郷付(ふ)するに左の内書(ないしょ)を
以て曰く

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三春町担橋 266
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