江戸人文研究会

江戸人文研究会 代表:善養寺ススム The Study Group of Edo Citizen and Culture
歴史学ではない、知のレジャーとして、江戸時代の人々、風習、思考を研究する編集者の会です。
研究のメインテーマは《江戸の間思考》
江戸時代に育まれた独特の思考性をさぐりだし、現代に活かします。
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以前から気になっていた浮世絵に、 #歌川豊国「小平治」ものがある。妻の不倫相手に殺害されても甦って現れ、また殺され、幽霊となって現れる「形」なのだが、散見しているだけではお話の芯がつかめない。というのも、歌舞伎や落語、戯作に跨がる当時の人気...
12/08/2024

以前から気になっていた浮世絵に、 #歌川豊国「小平治」ものがある。妻の不倫相手に殺害されても甦って現れ、また殺され、幽霊となって現れる「形」なのだが、散見しているだけではお話の芯がつかめない。というのも、歌舞伎や落語、戯作に跨がる当時の人気作品は、それぞれで「形」としてリメイクされるので、話しの大筋は一緒でも内容が異なるからです。
で。ちょっと落ちついて追っかけてみました。

そしたら!なんと!
「なんだい、幽霊が恐くてコハダが食えるか」って、僕らの子供のころのオジさんたちが言っていた「コハダ」は、この小平治から来てるんだそうですよ。知りませんでしたねぇ。

小平治は #小幡小平治 という役者の名前なんですって。で、小平治は役者なんだけど、うだつが上がらない。ようやく当りをとったのが、顔が似てるからってあてがわれた幽霊役だったのだそうですよ。
で、この機を逃すかと、幽霊の演技を研究して、幽霊なら小平治と呼ばれるようになったそうですが、地方巡業中に行く経不明になってしまうん。世間は小平治の妻とその情夫が殺したと噂し、この噂を脚色して、小平治亡き後に「小平治もの」の形が生まれたんだそうです。
だから、歌舞伎でも浮世絵でも、小平治ものでも演じてるのは小幡小平治じゃないっていうね、馴染みのない人にとっては、多少ややこしい状態になってるわけですな。

薄墨の作品は #尾上松之助 演じる小平治で、この浮世絵は幽霊らしさもありつつ、人間の愛憎も表現されていて好きなんです。
咥えているのは女房の首ですね。恨みと恋慕の末に切っちゃったんでしょうねぇ。でも幽霊の手ってだらぁんとしてるじゃないですか。だから首を持てなかったんでしょうね。両手開いてるのに咥えてます。ここ、笑うところじゃないんですよ。小幡小平治は幽霊役を研究したんですから、そういう細かいところまで演出されているわけです。ちなみに、尾上松之助はこの舞台では小平治と・おちか(お塚)の二役をこなしたそうです。舞台ではどっちの顔が本物だったんでしょうねぇ。いろいろ考えさせてくれる豊国らしい作品です。
一方の蚊帳から腐敗した顔を覗かせる、如何にも怖がらせようと一生懸命な作品は、葛飾北斎のものです。・・・北斎って、根っから幽霊なんか信じてなかったんしょうね、恐い絵は下手クソなんですよね^_^。中二っぽいていうか、どうだスゲ〜恐いだろう的な描画が、幽霊の何が恐いか分かってない感が出ちゃってて、かえってポップに見えちゃいますよね。それでいて、インパクトでは国芳には勝てなかったし。多分自分でも幽霊怪談の画題は好きじゃ無かったんでしょうね、あんまり描いてないですよね。

てことで、これからすし屋でコハダを食べる時には、こはた小幡小平治を思い出しましょう。

03/08/2024

学生から「なんで源氏物語がそんなに重要なのか、私はあまり面白いとは思わないのですが」という質問がありました。すっごくいい質問ですよね。この「なんで?」ってすっごく大切です。
私のひとつの意見は以下の通りです。

■江戸時代まで源氏物語は数ある古典の1作品であり、「退廃文化」のひとつと考えられていました。現代での「身勝手な男の不倫の話」という意見はその延長ですね。しかし、実際には「貴重な王子様との出会いのチャンスをみんなでワケワケするお話」です。「退廃文化」は世界中でおこり、文化の熟成記に登場すると言われます。
■源氏物語を日本の代表的文学へと昇華させたのは、江戸中期の国学者・本居宣長でした。彼の研究によって、源氏物語は「国学」になったわけです。江戸後期から幕末に向けて、国学は「国家」を意識させた日本人にとって、とても重要なものでした。
莫大な好奇心と勉強熱心な当時の若者たちは、海外の文化をゴクゴクと吸収する中で自我に目覚め、自我と国家の存在性を熱烈に問うていたわけです。この激しい時代の流れを通して、日本文化を形成したひとつのパーツが源氏物語だったのです。
■そんな歴史の中で、たくさんの人がこれを読み、影響され、利用したということは、源氏物語そのものが単なる文学という枠内の存在ではなく、文化的「共通言語」に昇華している事に注目してください。
■また、音楽では1960年代のThe Velvet Underground and Nicoは退廃音楽の代表です。ドラッグやLGBTQをテーマにした音楽ですが、それを仲介したのがアンディーウォーホルでした。彼のプロデュースによって、世間が「くだらない」「悪影響を与える」と批判していた音楽が「近代芸術」の枠で受け入れられるようになり、その後のロックに大きな影響を与えました。ベトナム戦争が激化して、アメリカの正義そのものが揺らいでいく時代です。
■どちらも、元々の作品のポテンシャルに加え前衛的だったのですが、実はその内容は社会的な包容力(やさしさ)に満ちています。源氏物語は年齢立場に関係なく光源氏という王子が愛してくれる可能性を与えるお話=当時の宮廷女性たちの閉塞的なジェンダーの格差に救いの糸口を与えているからです。当時の有力公家の男性は権力をかさにした乱暴で自己中心的な人々が多かったのです。彼は男性の象徴というよりは、社会変革への希望と考えてよいでしょう。
それでも、改革にまったく動き出さない読者の女性たちは哀れです。それは現在の政治に搾取されながらも投票には行かない人々と重なります。源氏物語は読者に与えるのは「もののあわれ」です。「ダメだよねぇ〜。でも、それが人間だものねぇ」と。優しいでしょう?そんな人はダメ人間だけど、そのダメ人間にやさしいのです。
源氏物語はそんな女性たちの様々な立場をひとりひとり描いていることも重要です。源氏物語に描かれなければ歴史に残らなかった人々もいるからです。もっとも重要なのは、彼女たちの「思い」が現代にも残されていることです。それは、創作ですから実在の「誰か」ではありませんが「彼女たち」であることは確かです。

どうでしょう? 源氏物語ってすごくないですか?

昔、向島業平に和竿店があって、職人が作っていたのを思い出しました。こういう丁寧な技術って、見ていて楽しいですよねぇ
11/05/2024

昔、向島業平に和竿店があって、職人が作っていたのを思い出しました。こういう丁寧な技術って、見ていて楽しいですよねぇ

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29/04/2024

僕の時代絵巻を動かしてくれました。
このためのデジタル画ですからね!
ワクワク

28/04/2024

学生に「トロッコ問題」を任意課題として出しました。

 「トロッコ問題」とは、暴走するトロッコの先に5人の人がいるというアレです。線路を切り替えれば5人は助かるけど、別の1人が犠牲になる。目の前にあるレバーで線路をあなたは切り替えるべきか否か・・・ちなみに正義の問題です。

 しかし、哲学や倫理学の授業ではありません。クリエーティブの授業ですから、問題の設定をいかように展開してもOKです。
 過去一面白かったのは「もし私がカラスだったら」で始まる意見でした。いきなり主体である私の条件を加工してきたわけですね。引き込まれました。クリエーティブとしてパワフルです。
 
 多くは真っ正面から取り組んで、レバーを切り替える数の判断や、反対に切り替えない。他には関わらないというものもあります。「正義には関わらないという選択もある」というのは、逃げのようですが、キャラクターやストーリーの設定には意味があるのです。その葛藤そのものが重要ですから。そして、考える訓練として正面から取り組むのは基本ですね。そして、思考深度を深めるためには、この答えの反対意見を考えたり、設定を様々に変えて見て、魅力的な説明を生み出して欲しいのです。

 例としての私の考察は・・・
 「レバーをどうすべきか決められない!トロッコが猛スピードで迫って来る!うわ〜!・・・その時、切り替えた線路の先にいる一人が振り向き、目が合う・・・遠くて、その人の顔も確認できないはずなのに、私ははっきりと目が合ったことを感じる。そしてその人は瞬時に事態を把握し、その目で私に伝えるのです・・・『後は任せろ!』と。私の体は間髪を入れずに反応し、線路を切り替え『頼むぞ〜!』とあらん限りの力を込めて叫びました」

 正義とは『他者の運命にも関わる選択をすること』と仮説し、退屈で空虚なトロッコ問題に、時間軸と他者とのコミュニケーションを加えました。これで、トロッコ問題がひとつのストーリーとしての魅力を得るわけです。僕の伝えたい文化利用というのこういうことなんです。
 退屈な倫理学をワクワクするストーリーに換え、客体者(作品を見たり体験する受け手)をワクワクさせつつ、学術的なものとの連鎖を持っている創作です。

 そして、そんな考察力を持って江戸時代の文化(人々)を見ると何倍も面白くて、自分たちの創作の種がたくさん見つかると思うのです。だけど実際には、江戸人を超えるのは難しいですよぉ。だって、彼らの0-1(ゼロイチ)が現代の日本文化でもあるので、私たちのあれもこれも400年から150年前の人たちが既に楽しんだものなんですから。ある意味では「やり尽くされている」んですねぇ〜。

 君は江戸人を超えられるのか!

 次の任意課題は「何故人は人を殺してはいけないのか?」を説明するものです。殺人は罪だけど、戦争や死刑は罪ではないその矛盾も考えていただきます。

今夜のじ〜〜〜〜〜〜〜。ふむふむ。歌舞伎の内容が現代に残されていないので、元とされたお話を見て、読んでおります。江戸前期に浅井了意が書いた仮名草子『安倍晴明記』。遣唐使・吉備大臣が唐に渡ると、玄宗皇帝は彼を処刑しようとしますが「才知に優れた...
13/04/2024

今夜のじ〜〜〜〜〜〜〜。ふむふむ。
歌舞伎の内容が現代に残されていないので、元とされたお話を見て、読んでおります。

江戸前期に浅井了意が書いた仮名草子『安倍晴明記』。遣唐使・吉備大臣が唐に渡ると、玄宗皇帝は彼を処刑しようとしますが「才知に優れた人間なら生きて日本に返すように」と命じます。
そして、まだ日本では知られていない囲碁の試合や、詩集、日本の未来予知書などを読む試練を課せられます・・・。
これは国立公文書館にある『安倍晴明記』の1ページ。
3つ目の試練『野馬台之詩』という文字の隣に、囲碁のような図が・・・これが詩になっているようです。しかし、もしかしたらこれは囲碁の戦術も示しているかもしれませんねぇ。皇帝も読むことができなかったこの詩を、吉備大臣は長谷観音の力を借りて導かれたのだそうです。

なるほど、一筆書きになってる・・・!あぅ?

寛文2年(1662年)に書かれたお話、現代でいう謎解き!ミステリーになってるじゃないですか!?
う〜む。恐るべし江戸人。

じ〜〜〜〜〜〜〜〜。

#江戸文化
#安倍晴明
#阿部仲麿
#金烏玉兎倭入船
#歌舞伎

く〜〜、観たい、観たい!
24/03/2024

く〜〜、観たい、観たい!

【NHK】日本の伝統芸能・文楽を海外でも手軽に上演できる新たな試みとして、大道具の代わりにアニメーションの映像で背景を表現した公演…

いや、なにね。ここ半月ほど悩まされてる件がございましてね。他でもない豊国さんと広重さんの浮世絵『東都高名会席盡』の中の豊臣秀吉モデルの「真柴久吉〔Mashiba HISAYOSHI〕」なんですがね。一枚目の浮世絵がそれでございます。味の素の...
28/02/2024

いや、なにね。
ここ半月ほど悩まされてる件がございましてね。
他でもない豊国さんと広重さんの浮世絵『東都高名会席盡』の中の豊臣秀吉モデルの「真柴久吉〔Mashiba HISAYOSHI〕」なんですがね。一枚目の浮世絵がそれでございます。

味の素のサイトなどの前研究では、この外題は『楼門五三桐』となっております。歌舞妓の題名はご存じなくても、主役の石川五右衛門の「絶景かな、絶景かなぁ〜」とか「この恨み晴らさでおくべきや〜」なんかは、二次利用、三次利用されてるんで、何処かでお聞きになったこともございましょう。

しかし。しかし、しかしですよ旦那。ここに、真柴久吉が登場するにはするんですが、その衣裳は二枚目の浮世絵のような巡礼姿なんです。・・・でも、描かれているのは唐の王の衣裳・・・なんでしょうね? 豊国さん間違えた?ってことは考えられません。だって二枚目の浮世絵も豊国作だからです。よ〜くご存知なんでございますよ。
そして、この歌舞妓には、唐の王・宗蘇卿というキャラが登場します。五右衛門は宗の息子のひとりなのです!

むむむむ?

じゃあ、この役は久𠮷でなく、宗蘇卿? いやいや、それもないのです。だって、豊国さんは「真柴久吉」と役名を入れていますからね。
では、真柴久吉が唐の王の衣裳を着ている歌舞伎はあるのか? 探して見たらありました。やはり太閤もので『御贔屓握虎木下〔Gohi'iki yakko-no-konosh*ta〕』という外題。それが三枚目。
抱いているのは輝若という若様役ということは分かりますが、いかんせん、この歌舞妓の内容が全くわからないので、何故久吉が唐の衣裳なのかも不明です。ただ、太閤記を元にしたお話だろうとは想像がつきます。とすると、この子は信長の孫で秀吉が天下取りに利用した三法師様役か?
だとすると何故、東都高名会席尽には輝若を描かなかったのか?

う〜む。謎がくるくる廻っているのでございます。
何かこう、面白い仮説(妄想)はできないものか、手懸かりを求めて、明日も江戸を徘徊いたします。

#浮世絵探偵

並木五瓶〔Namiki GOHEI〕という歌舞妓の戯曲家がおります。1794年(寛政6年)の大坂から江戸に下って「富岡恋山開〔Tomioka koi-no-yamabiraki〕}や「隅田春妓女容性〔Sumida haru-no-geish...
17/02/2024

並木五瓶〔Namiki GOHEI〕という歌舞妓の戯曲家がおります。1794年(寛政6年)の大坂から江戸に下って「富岡恋山開〔Tomioka koi-no-yamabiraki〕}や「隅田春妓女容性〔Sumida haru-no-geishakatagi〕」などをヒットさせた人です。

彼の作品は、人物の感情の発露よりも機微に注目があること​です。心の機微を演出するからこそ、時にステレオタイプになりがちな歌舞妓の女性の役どころも、人として写実的に表現されているように思います。反対にステレオタイプに描かれた女性を人たらしめるのは、役者の演技力にかかっているのでしょうね。

「富岡恋山開」は別名「二人新兵衛〔Ninin SHINBEI〕」と呼ばれます。新兵衛がふたり登場するわけです。またややこしい・・・と思いました。そのふたりの新兵衛を早替わりで演じるんだな・・・とか、浅知恵を働かせて勘ぐったのですが、違いました。となると、なんで五瓶は新兵衛をふたりにしたのか、気になりますよね。

荒筋はこんなです。
三十間堀(銀座)の商家に婿養子に入った元武家の新右衛門には息子がおります。その息子が主役の新兵衛。
新兵衛は店を継ぐべく真面目に働いています。彼には深川の遊女・小女郎〔KOJORÔ〕という恋人がおり、彼女を請け出すのが彼の夢です。しかし、玉屋では彼に"おえん"という娘を許嫁として用意します。
ここで事件が勃発!
旧主の息子・九十郎〔KUJÛRÔ〕が起こした事件により、旧主が牢屋に入れられてしまい、追っ手が江戸へやって来ます。犯人の九十郎は深川を根城に遊び呆けていました。そして新兵衛は九十郎が盗んだとされる家宝「鯉の掛け軸」と共に九十郎に自首させ、旧主を救うべく奮闘するのです。
彼は九十郎を説得し、家宝の軸と共に藩に自首する約束を取りつけるのですが・・・。

そんな中、小女郎を150両で請け出すと茶屋と交渉をはじめる者が現れます。それが、もう一人の新兵衛・宇田川町〔Udagawa-chô〕の出村新兵衛です。ややこしいので、もう一人は宇田川町と呼びましょう。(宇田川町は現在の浜松町あたり)
新兵衛は彼女を奪われまいと焦りますが、跡継ぎとはいえ連れ子の身、遊女を身請けするようなお金は現実的には工面できそうにありません。それならと、小女郎が50両をくめんしますが、彼は一方で、旧主を救うために掛け軸も取り返さないとならず、そちらにも大金が必要で、しかもそれは150両(1500万円)。
実は、この遊女は九十郎の妹で、遊ぶ金のために売られた身でした。新兵衛にとっては旧主の姫。なんとしても自分が請け出して護りたい!のですが・・・現実は八方塞がりに(:_;)

と、ここで理由を知った宇田川町が様々に助け船を出してくれます・・・。そして、宇田川町はなんと許嫁の"おえん”の兄でもあります(ややこし)。

さて、二人新兵衛は結末を迎えても、新兵衛がふたりである必要性はなかなか見いだせません。むしろ別の名前の方が分かりやすくていいのに・・・なんて思ったりします。
でもね、作家は何かを狙って周到に台本を書きますから、ふたりが新兵衛である必要性と必然性が隠されているはずですよね。
そういった視点で台本を読んでみると、ふたり目の新兵衛は茶屋で小女郎を中心に登場します。彼女を取り合う敵として登場するわけですが、恋心は同じという設定です。大抵は恋敵の役は金に物を言わせた嫌なやつなんですが、ここでは違います。なかなか面白いですねぇ。しかし、彼女の気持ちは三十間堀の新兵衛にあり、その気持ちに揺らぎはありません。宇田川町は常に冷静で必要十分な手助けを三十件堀に与えてくれます。
それで、はたと気付いたのです。作者は観客の日常で困った時に想像する「助けてくれる人がいればなぁ」という心情に共鳴させているのではないかと! そして、そんな救世主で唯一義理を生じさせないのが「もう一人の自分」なのです。

宇田川町の助けを借りて、軸を取り返そうとする三十件堀。しかし、世の中はそれほど甘くなく失敗に終わります。いやいやそれどころか、彼は九十郎を斬り殺してしまったのです!これはただの殺しではなく「主殺し」という重罪でしたから、本当に絶体絶命なのでが・・・。
これが五瓶は上手い。困った時、何をやっても改善に向かわない時ってありますよね。人生って継続的な努力が芽を開かせるものですから、一度助けて貰ってもなかなかそれで解決というわけにはいかないものです。・・・観客はうんうん、とうなずきつつ共鳴して、我が事のように感情移入するのです。
そして、観客の胸がはち切れる前に、またも宇田川町が助け船を出します。それも、必要にして十分なピンポイントの助け。義理も利息もない助け。その行為はまさに、もう一人の自分(新兵衛)なのです。
この歌舞伎の結末がこれほど安心感がある理由も、そこにあるでしょう。それは「もう一人の自分がしっかりしていれば、人生切り抜けられないことなんてないぞぉ〜」っという作者・五瓶のメッセージを無意識に受け取っているからです。

ちなみに、江戸時代のお話で恋の相手が遊女(売春婦)なのは女性蔑視から来る設定ではなく、当時、公に堂々と恋を語れるのが遊女であったからです。庶民にとって町娘が相手では道徳的な批判を受けますから。そこが現代とは違う社会事情です。

写真は明治時代の浮世絵で、守川周重画の描いた「二人新兵衛」です。周重は役者絵も描きますが、ほぼ漫画です。お世辞にも上手とは言えません。でも、建築画は『東京築地ホテル館上総海上遠景図』など、ダイナミックで魅了される作品を残しています。

13/01/2024

ドラえもんの「教育上」問題

 「ドラえもんは教育上、良くないのか?」という問いに対する考察です。ちなみに、ドラえもんがテレビアニメになったのは小学校の高学年の頃です。そのため、現代の子供たちと同じ環境では育ちませんでした。

 到達地点:ドラえもんは「生き方」の民主化という役割を担って、社会に支持されていると解く。勝ち組を目指すだけが人生の価値を高めることだとする、社会的な風潮に対し様々な個性と生き方を肯定するものである。その面を利用するならば教育上の価値がある。

 同じ様な問いに「アンパンマンは教育上よくないのか?」というのもあります。しかし、それらの意見に「いつも欠けている」のは、これらのキャラクターを「どのように教育に利用すべきなのか」という議論です。ドラえもんやアンパンマンを、まるで子供に与えるお菓子の様にしか利用しないのであれば、どんなキャラクターであっても「教育」にはなっていないので教育上という理由を語って見せる見せないを語ることは意味をなさないわけです。
 教育とは与えるか否かではなく、コミュニケーションだということを指摘しておきます。

 と前置きするならば、私たちが考えるべきはキャラクターの個性であり、その利用価値をどのように見定めるか、ということになります。

 ではまず、教育上よろしくないという、ドラえもんのび太キャラクターを見てみましょう。
①主人公はのび太のキャラクター
A:のび太は怠け者だ。
B:のび太は勉強ができない。
C:のび太はすぐ逃げる。
D:のび太はすぐに諦める。
E:のび太は体力がない。
F:のび太はいじめられ続けている。
G:のび太は漫画ばかり読んでいる。
H:のび太はダサい。
以上を見ても、のび太のキャラは「ダメ男」設定である。

②のび太の人間関係
A:一人っ子であるが、母親も父親もドラえもんとのび太が何をしているか、のび太が怪我をして帰って来ても、さほど気に留めていない=放任主義である。
B:しずかちゃんは、のび太に同情的であっても、暴力や嫌がらせをするジャイアンやスネ夫を悪人と烙印を押したり、無視したりしない。
C:ジャイアンもスネ夫も、のび太を評価せず下に見ているが、のび太の存在そのものは否定せず、のび太も彼らの行為は嫌悪しても、彼らの存在を友達としている。

 ドラえもんの生まれた時代も考慮することは、文化利用ではとても重要です。
Wikiによると、1969年の小学館で、ギャグ漫画として連載が始まりました。
 この頃から日本は高度経済成長期とバブルという、国家経済の頂点へと向かって行きます。社会の気風としては、努力と根性とバイタリティーです。そのひとつでも欠ければ、落伍者の烙印を押されるような時代でした。つまり、ドラえもんは時代の反作用の象徴的な漫画だった可能性があるわけです。イケメンで、高身長で、スポーツ万能で、高学歴がトップといった単一的な生き方を押しつけられる時代、自らの底辺性の沼に溺れる不安から救い出し、生き方と個性の民主化を見せてくれたことが、ドラえもんの人気を支えていたと言えるのではないでしょうか。
 それらを証明するのよう、ドラえもんはその人気とは反対に「のび太じゃあるまいし」「ドラえもんなんか、いないからな」といった怠け心や他力本願を批判するのに用いられてもいます。ドラえもん批判も、成功者理想論から来ていることは間違いありません。
 そしてこの議論の噛み合わないのは、ドラえもん支持の心理が、実は「怠け者のび太の成功譚(たん)」ではなく、人生の多様性にあるからだと読み解きます。

①で示した、のび太のキャラクターを書き換えるなら、
A:のび太は怠け者だっていいじゃないか、新しいことにトライするんだから。
B:のび太は勉強ができないけど、未知なものへの理解度は早いんだ。
C:のび太は逃げたっていいじゃないか、そのことを恥じていないんだから。
D:のび太は直ぐに諦めるけどいいじゃないか、懲りないんだから。
E:のび太は体力がないけどいいじゃないか、的当てが得意(筋力はないが体の制御には長けている)など、できることもあるんだから。
F:のび太はいじめを解決できないけどいいじゃないか、それでも寛容なんだから。
G:のび太は漫画ばかり読んでいるけどいいじゃないか、好きな物があるんだから。
H:のび太はダサいけどいいじゃないか、好きな娘がいるんだから。

 と、ダメ男の烙印の反作用が含まれていることを発見できます。とすると「教育上」にドラえもんを用いるなら、多様性を議論するべきでしょう。そして、これも既に用いられていることですが、ドラえもんを見て「ドラえもんが欲しい」という子供には、「もしも、ドラえもんがいたら、どんな未来グッズが欲しい?」と問うことですよね。自分が直面している問題を解決する発想を一緒に考え、その有用性や価値を考えるというのが、教育上役立ちますから。
 また、既にあるグッズを子供が指定するなら、その使い方を語り合うことも有益です。スマホが代表例になりますが、便利グッズは使い方次第ですから、利用倫理を育てたり、倫理観を共有する(道徳を育む)ことも、価値のある教育ですよね。

 そんな風にドラえもんを読み解いて行くと、感心せざるを得ないのは、のび太たちの人間関係です。それは「現実的な理想の人間関係」と言えます。だって、社会には必ずジャイアンやスネ夫のような、自分にとって嫌な奴や、自分のものを奪う奴がいるわけです。
 そんな人間たちをクソ扱いして消去してしまうことは、ドラえもんの世界ではしません。ですから、環境改善はされないのですが、それって日本の現実社会ですよね? ある意味では自我は曖昧なわけですが、それを受け入れること、またはそのこだわりから脱することができると、社会は生きやすいのです。
 これは大人の教育上に役立ちますね。おそらくそのためでしょう、映画ドラえもんが大人に人気があるわけです。映画では様々な敵と対峙し、命掛けの闘いに、自分をいじめるジャイアンやスネ夫と挑むのです。考えてみれば意味不明です。この機会にジャイアンもスネ夫もかたづけてしまえばいいのですが、ドラえもんはそんなことしないのです。そんな設定に違和感を覚えないのは、大人の社会が「嫌な奴とも仕事や近所付き合いをしなければならないのが現実」だからではないでしょうか。

 アンパンマンについては、自分の頭を食べさせるのはグロテスクとか、アンパンチは暴力的という事よりも、必要な時には助けを求めることの大事さを、子供と話すのが教育です。そして、どんなに幼くても、子供の日常にどんな問題があるかを語り合う機会にすることも、アンパンマンの教育利用として重要ですよね。

 そして、これらが日本文化において受け入れられる理由は、私たちの思想の根底に「もののあわれ」があるからではないかと思います。どんな人も永遠に強くあり続けることはないし、弱いものや、衰退するものにも美があるというものです。そして、その一種が、相田みつをの「人間だもの」でもありますね。

 そこで、これらを「キャラクター・デモクラシー」と僕は呼びたいのです。ここでいうデモクラシー(民主化)は、政治学や社会学でいう西洋基準の民主化ではなく、字の通りの「民が主である」という意味です。勝ち組という特権階級に向かうことだけではなく、民衆に様々な生き方と存在価値を取り戻すこです。それは、江戸時代以降に日本の社会が行って来た「大衆文化の発展」でもあり、いわばグローバリズムへの反作用です。
 キャラクター・デモクラシーは、確実に私たちを教育してきました。例えば、日本企業が作りだす、様々な便利グッズや機能は開発されては、安価で売られていますね。決して裕福な人向けでばかりではありません。例えば自動ブレーキシステムが搭載される車は、軽自動車が一番多いと聞きました。そして、100円ショップもドラえもん育ちの文化の賜物と言えます。ただ単に安い物を売っているのではない点がドラえもんですよね。
 アンパンマンの賜物は、子ども食堂や炊き出しですね。「分かち合い」「富める者の義務」とは思ってやられているのではありません。それはむしろ、アンパンマンなら当然することだから行われ、同時に受け取る側も疑問を持たないのではないでしょうか。

Japan has two characters that are popular among children: Doraemon and Anpanman. Anpanman is popular with babies to young children, and Doraemon is popular with elementary school students.
This is a consideration regarding the question, 'Is Doraemon not good for education?' By the way, Doraemon became a TV anime when I was in the upper grades of elementary school. Therefore, I did not grow up in the same environment as today's children.

Endpoint: Doraemon plays a role in democratizing the concept of "way of life" and is supported by society. It affirms various personalities and ways of living in response to the societal trend that emphasizes only striving to be successful. If we utilize this aspect, it holds educational value.

There is a similar question, 'Is Anpanman not good for education?' However, what is always missing in these discussions is the debate on 'how these characters should be utilized for education.' If we only use characters like Doraemon and Anpanman as mere treats for children, regardless of the character, it wouldn't contribute to 'education.' Therefore, discussing whether they are beneficial for education or not becomes meaningless. I would like to point out that education is not about giving or not giving, but about communication.
If we are to provide a preamble, what we should consider is the character's personality and how we determine its value of use. Now, let's take a look at the character of Nobita in Doraemon, which is said to be not good for education.

Nobita is often portrayed as lazy, unmotivated, and reliant on Doraemon's gadgets to solve his problems. Some argue that this may send a message of dependency and discourage children from taking initiative or developing problem-solving skills on their own. However, it is important to note that Nobita also exhibits positive traits such as kindness, empathy, and loyalty towards his friends. These qualities can serve as valuable lessons for children in terms of building relationships and understanding the importance of friendship.

First, let's take a look at Doraemon's Nobita character, who is said to be not good for education.
① The protagonist is Nobita's character.
A: Nobita is lazy.
B: Nobita is not good at studying.
C: Nobita runs away easily.
D: Nobita gives up easily.
E: Nobita lacks physical strength.
F: Nobita continues to be bullied.
G: Nobita only reads manga.
H: Nobita is uncool.

② Nobita's relationships:
A: Nobita is an only child, and his parents have a laissez-faire attitude. They don't pay much attention to what Nobita and Doraemon are doing, even when Nobita comes home injured.
B: Shizuka is sympathetic towards Nobita and doesn't label Gian and Suneo, who engage in violence or harassment, as bad people. She doesn't ignore them either.
C: Gian and Suneo don't appreciate Nobita and look down on him, but they don't deny his existence. Despite disliking their actions, Nobita still considers them as friends.

It is also essential to consider the era in which Doraemon was born when discussing its cultural significance. According to Wiki, it began serialization as a gag manga in 1969 by Shogakukan.

During this time, Japan was heading towards the peak of its national economy with a period of high economic growth and a bubble. As a societal trend, it emphasized effort, perseverance, and vitality. In that era, even lacking in one of these qualities could brand someone as a social outcast. In other words, Doraemon could potentially be seen as a symbolic manga that reacted against the prevailing norms of the time. In an era where individuals were pressured to conform to a singular way of life characterized by being handsome, tall, athletic, and highly educated, Doraemon provided a rescue from the anxieties of drowning in the depths of mediocrity. It showcased the democratization of lifestyles and individuality, which could be said to have supported Doraemon's popularity.

As evidence of this, Doraemon is also used to criticize laziness and reliance on others, despite his popularity. Phrases like 'You're not Nobita' or 'There's no Doraemon' are used to criticize such attitudes. It is undeniable that criticism of Doraemon also stems from an idealization of success.
The lack of coherence in this argument stems from the understanding that the psychological support for Doraemon is not actually about the success story of the lazy Nobita, but rather about the diversity of life.

Here is the revised version of Nobita's character as indicated in ①
A: "It's okay for Nobita to be lazy because he tries new things."
B: "Nobita may not be good at studying, but he quickly understands unknown things."
C: "It's okay for Nobita to run away because he didn't think about the escapes ashamed."
D: "It's okay for Nobita to give up easily because he gets never punished by the experience.
E: "Nobita may not have physical strength, but it's okay because he is good at target shooting (he excels in body control even without muscle strength), and he can do other things too."
F: "Nobita may not be able to solve bullying, but it's okay because he is tolerant."
G: "Nobita may only read manga, but it's okay because he has something he loves."
H: "Nobita may be uncool, but it's okay because he has a girl he likes.”

Based on the above, it can be discovered that there is a counter-effect of branding someone as a 'bad guy.' If Doraemon is to be used 'for educational purposes,' then we should discuss diversity. Additionally, although it is already being used, when a child says, 'I want Doraemon' after watching the show, we should ask them, 'If you had Doraemon, what kind of future gadget would you want?' This helps them think about solving the problems they face and consider the usefulness and value of such thinking, which is beneficial for education.

Furthermore, it is beneficial to discuss the usage of existing goods if a child specifies them. Smartphones are a representative example, but the usefulness of gadgets depends on how they are used. Therefore, it is valuable education to cultivate ethical use and share ethical perspectives (nurturing morality).

If you interpret Doraemon in this way, you can't help but be moved by Nobita and his friends' relationships. That can be said to be a realistic approach to human relationships. After all, in the real world, there are always people who are unpleasant or who try to take something from us, like Gian and Suneo.

In Doraemon's world, they do not treat such people poorly and erase them. Therefore, there is no improvement in the environment, but isn't that the reality of Japanese society? In a sense, the ego is ambiguous, but accepting it or being able to let go of that attachment makes society easier to live in.

This is also useful for adult education. I think that's probably why Doraemon movies are so popular among adults. In the movie, Doraemon and Nobita, along with the bullies Gian and Suneo who tease him, face various enemies and engage in life-or-death battles. When you think about it, that's not a nice thing. It would be a perfect chance to trap Gian and Suneo and defeat them, but in Doraemon's world that is not the case. The reason why I don't feel uncomfortable with such a setting may be because in the adult world, we often have to deal with unpleasant people at work or in the neighborhood.

Regarding Anpanman, it is more important to talk to children about the importance of seeking help when needed, rather than considering it grotesque to eat one's own head or considering Anpan Punch as violent. It is also important to create opportunities to discuss the problems that children face in their daily lives, no matter how young they are. This is crucial for utilizing Anpanman as an educational tool.

And I think the reason why these are accepted in Japanese culture is because there is a fundamental concept of 'mono no aware' (the pathos of things) in our ideology. It is the belief that no one can remain strong forever, and also that there is the same beauty in the weak and the declining. And one example of that is Mitsuo Aida's 'We are only human,' isn't it?

So, I would like to call these 'Character Democracy.' The democracy mentioned here is not the Western standard of democracy as understood in political science or sociology, but rather the literal meaning of 'the people are the main focus.' It is not just about moving towards the privileged class known as the 'winners,' but about reclaiming various ways of life and inherent value for the masses. It is also a development of 'popular culture' that has taken place in Japanese society since the Edo period, so to speak, a reaction against globalization.

Character democracy has certainly educated us. For example, various convenient goods and features created by Japanese companies are developed and sold at affordable prices. They are not exclusively for wealthy people. I heard that the car model with an automatic braking system is most commonly found in compact cars. Additionally, the 100 yen shop can be considered a product of the culture influenced by Doraemon. It's not just about selling cheap items, which is what 100yen goods are like, right?

The gift of Anpanman is the children's cafeteria and food distribution. It is not done with the idea of 'sharing' or 'the obligation of the wealthy.' It is rather something that Anpanman naturally does, and the recipients also do not question it.

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121-0815

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